子どもだけではありません。

子供の違い

善悪の判断は、多少単絡化していえば、自分と他人との快·不快にかかわることだ、という説明を、常々、至って合理的に、子どもに分かる具体性で、感じとらせてやるべきことだと思うのです。
たとえば、他人のものを盗るのがなぜ悪いか、といえば、盗った側は、労せずしてそのとったものを自分が活用できるので、その分、至ってであるのに、盗られた側がすこぶる不快であるのは、盗った側にとっても、充分想像できる。自分がであることが、同時に、他人にとって確実に不快であると知るとき、自分のは、もうひとつ純なにならないものであって、の裏に、重い影がどうしても残る。の裏に不快がある。
自分のが、同時に他人の
より本当のなのであるのに。
でもあるというときの
は、裏も表も
であり、つまり、こういうことです。
成長の度合い

子供たちとも遊んではいけない

自分が不快で、他人も不快なら、これはまさに不快です。
自分がでも、他人が不快なら、これもやっぱり結局は不快です。
自分が不快なら、他人がでも、これは不快に決まっています。
だから、自分がで、他人もで、これこそ心ゆくまでなのである、と。
こう、教えてやるのは、至って合理的な説明になると思います。
だからこそ、ひとのものを盗る、ということが、結局自分自身にとっても不快この上ないことなので、しない方がだ、と教えるわけです。罰は、いらないのです。
前へ前へと確実に育っていく子、と認める
それと同じで、良いことをほめる、というのも、快·不快でとらえればよいと思います。
よくうちの子は、なんにもほめることがないというお母さんがいますが、それは、なにか特別良いと思うことだけが、ほめるべきことなのだと考えてしまうからですね。
快·不快のとらえ方でいって、自分にとってなことが、他人にとってもだ、というようなことは、日常茶飯に、いくらでもありますね。それを、ひとつひとつだと、互いに確認する。それが、つまりほめるということだと考えておれば、平生の暮しのなかでほめることは、いっぱいです。

 

子どもが明日にのぞん


両親は点数がよければニコニコするでしょう。

「わーツ。おかわり?そう!よかった。カヨコの食べっぷりすごいもの。きょうはうまく料理できたみたい。認めてくれたわけだ、私の料理の腕前を。カヨコの味覚が。ありがとう」
これ、子どもをほめているのですよね。母親が、自分の作った料理を子どもの味覚が認めてくれた。つまり、子どもが親をほめてくれた、という思い。それが、うれしくて、ありがとうと思わず口にしてしまう。親が子どもの存在そのものを、すばらしいと、ほめているのですよ。

まあ、おかわり?おいしいでしょう。でも、カヨコ、こういうときだけご機嫌ね。おいしいものを食べるときは、顔つきまで違うんだから。ほんとうにもう。嫌いなものでも我慢して食べないと、大きくなれないのよ。おかわりもいいけれど、おなかこわしたって、知らないよ。もう自分の思い通りにいかない子を、おいしいと思うと、責めてばかりという、こういういい方ではどうも。

おいしいものはいどこまでも食べるさ。
いらなくなったら、もう食べたくなどこまでも食べたいのに、なくなってしまったらそれでおしまいだし。
中学生を通して圧倒的

子どもたちの将来に役立ちそう自分の作ったものを、と、こんないい方が、子が食べてるのを見るのは、親の最高のしあわせほめるにつながっていきますね
ほら、うっかりしてるから転んだのよ。
泣いたって知らない自分が悪いのでしょ、自分がと、そんないい方をするより、
あー、転んじゃった。泣くだけ泣いたわねぇ。
泣くのだって、これはときに大事な激しい運動。
自分で起きたね。痛かったよね。だのに、一度こうして転んでみると、をつけて歩くようになる!いい経験をしたの。ハルナは私の子!
このガタガタ道を自然と気こういう場合でも、これで、子どもをほめるという気持で、ことばをかけているわけですね。
子供に対して日ごろ
子供に対して日ごろ

育てる資格の無い親だとすら私は思う。

母さんにかまってほしいだけなのです。おまえは、前へ先へと、自分から確実に育っていく子だわ。それを、だれよりも私が自信をもって認めているのよ!と、声をかけることが、ほめることなのですよ。
弱い者いじめ、やめさせたい
ほんとのことはどうしてもいおうとしない
ヒロヤが、よそで弱い者いじめをしている、と耳にしたお母さんは、信じ難く、胸のつまる思いでした。帰って来るのを待ち構えて、ちょっといらっしゃいと引き寄せて、険しい顔で問いただします。外で夢中に走り廻っていた11年生児は、汗だらけの顔で、親を仰ぎ見ます
ヒロちゃん。あんた、弱い者いじめしてるンじゃないの?

ヨワイモノイジメ?どうしたの?

どうしたのじゃないわよ。ヒロヤが、ヨウスケくんを、いつもいじめてるんだって?
「いじめてなんかないよ。ねえママ、アイス。いいでしょアイスは、あと。ちょっとオ、も、いってること、ちゃんと聞きなさい」
「だから、ねえ。アイス。いいでしょいいでしょ。
中学生を通して圧倒的

子どもの世話になることも現実的にはあろう

とってくるよとってくるよとってくる」
なんだか、ズレた気持が、ズレたまま……。
「だめよゥ、だめ。アイスもなにもあげません。ちゃんと話を聞かないんだから。ヨウスケくんを親は腹立ちで声を高めてヒロヤ、ねえ、ヒロツ。
どうして、あんた、いじめるのよ」

いじめてなんかないったら、なかよしみんなしてるったら。だから、アイスウほんとにいじめてないのね
ほんとにいじめてないよ!
ほんとねほんと!ほんとのほんとね
ほんとのほんとだよ、だから、アイスウじゃあ、これからも、いじめたりしないわねうん
うんじゃだめよ、いじめませんっていわなきゃイジメマセン

絶対に?

子どもに強制したことがありません。

勉強しているのであって

母親の態度

とにかく、いうことが耳に入らないようなのですね、マサトは。
お母さんの前を、マサトがうんこらうんこらと、客用の座ブトンを運んで行きます。

どうしたの。それ、どうするの?
また、なにごと?と気色ばんで、さんなんか、完全無視なのです。
繰り返して尋ねる前を、彼は平気で横切って行きます。
お母座敷で洗濯ものをたたんでいたお母さんが、一髪というところでした。
あわてて後ろからついて行ってよかった。
まさに間裏の縁先から、すぐ下の地面においてある、水の入った子ども用のビニールプールへ、と運んだ客用の麻の座ブトン11枚を、まさに投げ込もうとしているのでした。
うんしょ
いったい、……お母さんは、なにかから連想した遊びのイメージがあるのでしょう。
どういうつもり?
座ブトンの端を掴んで、叫びます。
またまたマサトくんの頭には、そうです、きっとそう。先夜、テレビでやってた、温泉めぐりのハチャメチャ番組。確かにそれで、頭にタオルの鉢巻きをしたハダカのおじさんが、座ブトンみたいな四角い浮きのまん中にでんと坐り、大浴槽の湯の上で、酒を呑んでいた、そんなシーンがあった。
成長するのです。

両親で話し合って

ふと自分もそれがやってみたかったのに違いありません。
まわりが、二重になったふくらみで、重ねたように見えたのですから。
あのテレビに映っていた浮きは、確かに二枚の座ブトンをお母さんは、もう泣きたくなっちゃいます。
お父さんに叱ってもらうからね!
ヘッヘッヘ、ハハハハ、と笑われ、母親の権威なんて、全く形なしです。
父親の前ではとってつけたような、殊勝な縮こまりの態度
ところが、お父さんの前では、マサトは別の子になりますだって、お父さんは、お母さんの請負いしごとで、とにかく怒り屋専業です。

 

先生は女性である。


子どもに対するカウンセラーとして

一杯呑んだあと、大口をあけて楊子をつかいながら、こわいのだから。
マサト、こっちへおいでマサトはその一語が響くだけで、首がびびびびッとすく電流でも通じているのかと思うほど、みます。
どうなんだ、いったい
ゴメンナサイ

ごめんなさいっていつもいつも、この繰り返しじゃないか。今日は、なにをした!?

モウ、シマセ。ゴメ.ナサイ!
お母さんを困らせて、それでいいと思っているのかバシーン
,食卓を父さんが叩きます。
一度、びしばしと、右へ左へ叩き倒されたときは、すごかった。
マサトは、きゅーっと体を縮めて、小さくなって、息をつめています。
横から無念極まりなしという声で母親がなじります。
「いくらこうして父さんにいわれても、ちっとも変らないんだから。
るのかしら。もっともっと叱っておいてよ」
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子供の性格ということが大きいのですこの子、いったいどうなってちらっと上目遣いで父親を眺め、父親の反応があらわれる前に、速さで、ゴメンナサイツとマサトが、絞り出すように叫びます。
飛びしがるように機先を制する
でも、ほんとに、習慣になってしまっているのですね父親の前では、とってつけたような殊勝な縮こまりの態度母親だけの昼間は、思いついたことを思いついたようにし抜いて、親の注意など全く耳を貸さな邪鬼さながらのしたい放題母親は嘆いてなじって、い、おろおろ子の後について。
子どもに振られっ放し。
実質とにかくこのパターンにはまって、日が過ぎてきてしまっているのだから、子どもだってそれでよしと、よくよく頭で考えて、そうしているわけなんかではなくて、とにもかくにも、一日過ぎてみれば、きのうもきょうも、そういう毎日だった、ということなのですね
また、マサトったら、きょうもなのよ、
ようし、マサト、こっちへおいでゴメンナサイツ
お父さん
という、このパターンを、親の方で、ひとつ、どうでも取り止める覚悟をしなければ。
子どもには非常にそれを感ずる心があるのです。
子どもには非常にそれを感ずる心があるのです。

指導することすなわち

子どもであればとくこれでは、心にしみ込むことばというものを、一度も味わわないままで、自分の不用意な、したい放題の習性から抜け出せないまま、大きくなってしまいます。
ことばは、
ねえ、心を運ぶものでなくてはなりません。
父さん、この頃、マサト、違うのよ。
ほんとのマサト自身が、見えてきてるのそういういい方を、パターンにしてしまったらどうかなァ。
そして、昼間の、したい放題のだめなことは、できるだけ、父親に、母親自身が、効き目があろうとなかろうと、自分で叱ってやる。
できる限り訴えることはよす子どもの、け出す目配り。
育てってこんなに大変なものだとは思わなかった。

個性を十分

ちょっとしたよいところ、前向きのところ、クールなひらめき、などを、うまく見つこれが、子育ての重要なポイントでしてねえ。
で、お父さんに、いってやるのです。
「ちょっとうっかりして、アユミのミルク、熱かったのね。
アユミをあやしてくれたの。
で一口吸って泣き出したわけ。
マサト、すると、マサト、ベロベロべエーッて、やさしい」
「ほう、アニキだなア、早く一緒につきあえよ。
やっぱり、マサト。おまえ、早く大きくなれや。大きくなって、男の子の育つの、やっぱりオヤジとしては、楽しみだなア」
オレの酒「ア、それ、おショーユでしょ。母さん。おショーユ。父さんに、ぼく持って行ってあげる」

父親に対して次第に反抗するようになりました。

子ども同士自由な遊びを展開してわれを忘れて夢中

子どもが何か問題を起こせば

子供を脅す必要などありません。
というしそれで、夕方に片付けるときは、どれからどう手をつけたらいいか、子どもでなくても茫然としてしまうほど、家中がショウちゃんの遊びの世界になってしまっているのです。
さて、だから、夕方は、お母さんにとってもショウちゃんにとっても、いやな時間です。

こんなになにもかも出しっぱなしてしまったら、片付けられないでしょう。だから、ひとつずつ出して遊びなさいって。
ひとつ片付けて、ひとつ出して。
きょうこそ手伝わないよ、絶対に。
お父さんや、おじいちゃんが帰ってこられるまでに、きちんと、片付けるのよ。
よ。ねえ、ショウちゃん。どうしてるの。まだ遊んでるの?どうしてるのよさ全部。
ぜーんぶ結局そういいながらも、実際、男の大人どもが帰ってきたら、子どもが叱られるよりも、母親が散々愚痴をこぼされ、しつけが悪いと叱られるのだから、お母さんが、百も文句をいいながら、ほとんど自分で片付けることになってしまいます。

子供の側からすれば
遊ぶときには夢中だったショウくんも、今は遊びの世界の外に出ていて、なんだかまるでやる気がない。ポーンと大玉を投げて、おもちゃ箱へ投げ入れるつもりがはずれて、横の積木のお城にあたって、お城が崩れる。アハハ、と笑って、たちまち投げてものに当てっこのゲームの開始。

片付けるのでしょうがア。
お尻を叩かれて、いつまでなにをしているのよさついに、余計に不満で、そのあたりに寝つころがってしまいます。
「あしたからね。こっちにこれ出して、放りっぱなしにして、あっちであれ出して遊んでたら、こっちのぜーんぶ、母さんが片付けて、戸棚にしまって、出せないようにカギかけてしまうから。
ね、いいわねツー」
そうはいっても、五歳、六歳は、遊びの世界を、いっぱいに展げたい年頃なのですからねえ。
あの遊びへと発展させていく。絵の画きっぱなしの道具も置いておきたこの遊びから連想して、
いし、怪獣がのっしのっしと踏みつぶしていく大都会を、大急ぎで積木や菓子箱で作らなければならない。

母親がいくらいっても聞こうとしないアッオくん

さっき見たテレビのコマーシャルがヒントで、モータープールビルを、この机を活用して、空き箱利用で積みあげて、ミニカー1台ずつきちんと並べて。ところが、ここへ怪獣が来たら、どうなるか。グワワーン。ひっくり返してそのあたり滅茶苦茶。
この絵本、もう見ないのでしょ。片付けるよ

あーあ、あ。だめーツ。触るな!
なによ、偉そうに!片付けるよ
だめーツ!
遊びも片付けもひと流れの愉しいしごとと思わせる
むしろ、展げっぱなすのは、やむを得ないことにして、片付けるということを、うまく誘導した方がいいのですね。
ポイントは。
片付けるとなると、ぴたっとやる気がない。
そこをどうするかの工夫ですね遊びと片付けとを、だと思うのです。

子供にはありのままを教えればよい中学生を通して圧倒的異質の別のものに、親の気分自体が、二分してしまっているのが、問題なの「さあ、これで、あなたの楽しい楽しい、したい放題の遊びは終った。これから、あなたのいやないやな、どうでもしなければならないお片付けをはじめなくてはならないの」といういい方に、遊びはバラ色、片付けは灰色、という区分けで、しっかり色付けされているのですね遊びは発散。片付けは重圧もっとひどくいえば、遊びはとっても明るいことで、子どもの気持において、というより、親の態度が、ですよ。
片付けはなにか暗いこと、というような。
親の顔色にあらわれるその違いに、まず暗示を受けて、子は、ことさらに、うつとおしく強制される労役のように思ってしまうのではありませんか。

練習の足しになりますかむしろ

片付けることを、遊びと片付けを、一色の、ひと流れの、つまり、そのすべてを、遊びの一貫と、見てしまっているという態度を、親自身が、しっかり見せれば、子どもも、それに明るい暗示を受けて、もっともっと片付けるということに、こだわりを持たなくなるのではないでしょうか。
さあ、もうそろそろお片付けよッと、口をとがらせて不服面で、向うから声をかけるのではなくて、「わー、これだけ出して展げたら、片付けるのって、おもしろそう。ほら、このボール、こっちでしょ。ここに、こう入れて、と。

子どもの親だったとき

ショウ、その積み木、グララッと倒してごらん。ウワーーッ。倒れたあ。〈エ、その角に、それを入れると、これがこう入るのか。なるほど。
これはこっちと、それは、ハーイ。そっちへ、これ、渡すよ」
ある時間が来たら、展げるゲームでなくて、片付けるゲームへ。
それもまた、実におもしろいものだと、そんな感じを、お母さんが、体であらわしてしまえば。
いつしか、子どもも、それに乗って、いつしか、手伝ってもらいながらでも、どんどん片付いて子どもにとって、我ながらやるね、といったちょっと誇らしい感じにもなって。

      成長するにつれて算数や理科に苦手意識が芽生える。
      母のふんばりはとつの心的原点になっています。
      指導をしていればこういう事件も防げたのではない


中学生を通して圧倒的 成長するのです。 先生になるのだという自覚もない。