母親というのが特別ではなくなっている様子です。

高校時代をこれから過ごすのですか?

それは、子どもの心ただし、その違いを、ことばで子どもがこう違うよなどと、説明してくれるのであれば、だれにも分かりやすいのに、そうではないので、見過ごしてしまう大人は、平気で見過ごしてしまいます。
いや、大人が見過ごすというよりも、子ども自身が、しっかりと、自分がそういう見分けをしているのだということを、気づいてはいないのですからねえ。意識していない。無意識のうちに、自覚しないでやってしまうことですからね
うん、上手よ。ヒロコ、その調子でやればいいのだからね。しっかりお片付けなったわねぇ。やっぱり、あのお人形のドレッサー、買ってあげようかな?
できるように「ええ?買って買って。お片付けもっともっと、ちゃんとやるようにするから」

ほんとうかな?!
ほんとうほんと?
ほんとにほんと
そうかな?
子どもだけではありません。

子供では親のペットでも愛玩物でよくないのです。

ミコちゃんやチコちゃん人形の名、喜んじゃうよ。わーいわい

買ってあげる代りに、するよ、するする
毎日、ママがいわなくとも、お片付けは自分でするのよ
と、そうはいっておいても、買ってやるべきものを買ってやって、子どもは大いに喜んで、二、三日は、ほんとにいわれずとも、遊んだあとは、しっかり片付けたのに、四日、五日目は、もう元通り、出したものが部屋にいっぱいで、散らかしっぱなし。
ヒロコ。だめじゃないの。
ないわねえ

お片付けは、ちゃんとするって、あれだけ約束したのに、ちっともし「だって、ミコちゃんと、チコちゃんが、イモウトがほしいっていってるよ」

なにぃってんのよ。お人形は、もう二つでいいの。もう買わない!
だったら、お部屋のお片付けはしないからね

 

母親に反抗するわけです。


育てるここまで思い

「ちょっとヒロコ、なにぃってんのよ。ドレッサーを買ってあげる代りに、お片付けするって、ヒロコ、ちゃんと、そう約束したのよ」

だって、お人形買ってくれないもそうじゃないって、いうのに
だって、買って。ミコとチコの妹がいるのよ。どうしても

だったら、ほんとに、今度こそ、お片付けを続けるっていうの?

するする、絶対する。ゼッタイなんだか、変な成り行きですね。それを、変だと分からせようとする難しさ。
子ども同士自由な遊びを展開してわれを忘れて夢中

子ども部屋を与えることが多くなっています。ほめる、ということ、と、なにか良いことをするとほうびをあげる、ということとは、同じではありません。
ほうびとなると、なんだか、このような、事のもつれが起こりがちです。
というのは、悪いことをしたら罰を、良いことをしたら賞を、ないやり方だと、私には思われてなりません。
幼い子どもに対して、してはなら
善悪の判断の強制よりも、快と不快の共感をこそ
賞と罰、つまり、ごほうびと、おしおきは、なぜ必要がないか、と、私が思っているのかというと、罰がこわくて、悪いことをしないとか、賞がほしくて良いことをしたいとかいうことでは、んとうの良い悪いの感覚は育たないからです。
子どもにして
子どもにして

母性に対する考え方

学校でも帰ってほご飯を食べたあと、流しに、お茶碗などを、タツオは、せっせと運びました。

あら、いわないうちに、運んでくれたの?

だったら、代りになに?ごほうびはそうね。じゃあ、クッキーを三枚、にしようか

じゃ、今すぐ食べていいんでしょ
だめ、ご飯のあとはだめよ。一時間してからにしなさいだって
だってじゃないのよ。我慢することを覚えなくてはソンしちゃった。
チェッ

なんだか、子どものうちから、親と子で、あれがだめなら、代りにこれ、といったやりとり、つまり、かけひきばかりを展開していては、良い悪いではなくて、損か得かの感覚だけが身についてしまうことになりそうです。
善悪と、損得とは、別の感覚だということを、の豊かさ貧しさに、ひびいてきますねうまく分からせないと、あとあとで、子どもの心だから、ほめるということに、ごほうび、つまり、景品をつけてはならないのですよ。
子どもだけではありません。

小学校という公立

ところで、一般に、たとえば、大学は理科系を出て、先端の技術にたずさわるエンジニアであるという父親のなかにも、子どもに、善悪の判断をつける際は、いわゆる倫理とか道徳とかという、人の道に関することだから、とにかく理屈抜きに、これは良いこれは悪いと、判断を示してやって、
それに従わすべきだと考えている人が意外と多いものです。
ほうびでつる、というのも、いうのも問題だと思いますね。
問題だし、かといって、文句なしに、叩き込んで身につけさせるとしごとの方の工学技術などに関しては、実に合理的で、科学的な考えを展開することのできる人が、いわゆる人の道とかのことについては、超合理というか逆に没合理というか、問答無用ととらえるのは、なんだかナンセンスです。

成長に合わせて増えていきます。

子どもを抱き込み続けて

学習の場が激減して中での生活を強いられる。

父さん、こうして、マサト、すごく気がつくのよ。どう?私の子よ
なにいってる。オレの子だよ、なア、マサト
ハハハ、へへへ。みんながそれぞれ笑っている。
こんなパターンを、少しずつつくってしまうことですね自分がよくよく認められている、という気持で、暖かく支えられると、これまでのしたい放題がだんだん影をひそめてくるものです。
ことばが、ぬくもりを、心から心へ届ける。ことばの力を、しっかり活用するくせを身につけなければ。ことばを選びそこねると、逆にこわばりやこだわりばかりを、ことばは心から心へ届けることになってしまうわけです。
受け取るのが快くないものは、いくら届いても、はねつけあうばかりになるでしょう。
中学生と福岡県

父親をののしりながらど

親の誤解から、大人と子どもの本気の対決がはじまってしまう
押してだめなら引いてみなと俗にいうように、親と子の関係でも、まずいパターンにはまり込んでいて、どうにもならないのに、そのパターンからはずれてみるという工夫を思いつかずに、押してだめならもっと押せとばかりに、無理を強いて、子どもの心を壊してしまうことって、あるのですよ。
押してだめならもっと押せ、で子どもの片意地を強くするだけ、ということがよくあります
ら頃、幼児虐待の事件が、マスコミでも報じられますが、で死に至らしめてしまうことだって、起こっているのですね。
ひどいのは、わが子を過酷な仕打ちもとからわが子が憎くて、そんなことになるわけではありません。
つまり、子どもをよくしよう、と願ってのことばには違いないのに、心にぬくもりを届けてやれない親のことばは、子が、平気でそれを無視したり、反発したりするのです。

 

母親の権威なんて全く形なしです。


いじめっ子のいない通りを拾って歩くよく

その無視や反発を、心にゆとりのない親は、反発している、と、取り違えるわけです。
ストレートに、わが子が親そのものを無視しているそのときその場の、ことばへの反応なのに、親の人間そのものへの反応だと早とちりするのですよ。すると、思わず、親は子を、つい、憎らしいと思ってしまうのですね子は、そのときその場の、親の、まずいことばや態度ややり方に、うとましいと思うことはあっても、親そのものを、うとましいなんて思ったことがない。だのに、親そのものを、子がうとましいと思っていると、親が誤解したところから、とんでもない悲劇が進行するのです。
安心できる愛情豊かな環境に育った子どもと、いつも身構えてわが身を守らねばならないゆとりのない環境で育った子どもとを、なにげなく接して比較してみると、随分と両者の、日頃の対人関係のパターンが違うわけです。
赤ちゃん写真先生になる

母と子で絵を描くひとの家ということだけでわたとえば、ごく普通の家庭で育った近所の子どもと接していて、子どもの悪ふざけがちょっと強すぎるのでした。大人の方が、やめなさい、といっても、ふざけきっているので、なかなかやめない。そんなにいってもやめないのならと、こちらが腕を掴まえ、
よーし、これでもかと、少しばかり子どもの腕をねじあげたら、ごめんごめん、しないしないと相手の子どもは降参します。それで、ふざけの始末が一応つくというものです。
子どもに憎むような目付きを投げても、それはもちろん本気でなく、腕をねじあげるったって手加減している。
母親は口をとがらせてブラウス。
母親は口をとがらせてブラウス。

母親はお話にならない。

母親になるとは?それは重々了解していることだから、子どもも大げさにあやまるものの、すべてはまあいってみれば、遊びのなかのかかわりですそれが、あるとき、不遇な環境で育ち、親代りの人に育てられたり、児童福祉施設で暮してもいたりして、対人関係にいつも緊張した疑いを抱く習性が、幼いうちからできている子どもと遊んだときにもちろん、ここは、はっきり念を入れて注釈しておきます。施設晷しだとどんな場合も子どもがそうなるなどといっているのではなく、転々と落ち着かない年月のうちに、ある子がそんな緊張を強いられる習性になった、というひとりの子どもの例を、いっているのです、なんだか遊んでいて、びりびりするものを感じたのです。すべて、手ごたえが違う、と思えたのでした。
成長の度合い

先生エッチね

切れた人間関係に慣れてしまうと
心がきーんと緊張した、いわばこちらとの隔たりを用心して抱いている子も、遊びがおもしろくなると、次第にを出しはじめ、冗談のきつい悪ふざけを繰り返すようになったので、こちらがよーし、そんなにするのならといって、子どもの腕を掴まえ、
これでもかと、腕を少しばかりねじあげるふりをすると、なにも本気で痛めつけようとしているものでもないのに、すっかり身を構えてしまって、顔つきが、さっと、もはや遊びじゃなくなってしまったのでした。
こちらを信用し、安心していいのかなあ、と、いわば遊びのなかで許される甘えやれよ、やんなよと、鋭くいうのです。私への安心の色が、目のなかには、残っていなかったので、こちらが、どぎまぎしてしまいました。
あやまらないからな。いくらやられたって、な子どもがはっきりいう以上、こちらもやりはじめたパターンから脱け出せず、つい相手が、本気で痛みに耐えて、歯を喰いしばるので、こちらはもう少し力を強め、これでもかとやらざるを得ない。

学校を選ぶという

育てた人の書いたもののほう

父親の弱いところに悲劇が起こっている。

それはどんなことを指すのかを、具体的にいえば、たとえば、道を歩いていて、「わッ、このガーベフ、きれい。白いのもきれいツ。赤いのも、わー、たくさんね」

あの雲、なにかに似てる。えぇっと、えぇっと。そう。うん。そうだ。ウフ。四国のおじいちゃんちのマリよ、ね、マリ。
玄関の脇で、うずくまって、こっち見て3とか。
あるいは、食卓に坐ってミヨ。うまくできちゃったみたい。スープ。うーん、これは上出来。コーンの香り!

この青色のカップ。私、大好き。明るくって海の色だよ。いつもこれで、紅茶、飲みたいなどと、子どもの前で感覚表現をすることに慣れること。たとえば、そんなことですね子どもをほめることが苦手という人は、まず、自分の気持を表現するということをあまりしない。
子どもに依存性を養います。

体験することができる。

そういうのは、あまりやらないし、やりたくもないし、やる必要なんかないと思っていた、という人が多いようです。
耐えていたものが、思わず暴発する、同じく、で、叱る方は、やってしまえるのですねという形気持の表現ではあるものの、知らず知らず、成り行きまかせで、うっかりすると、それはたびたび度を越してしまいますね。
叱るというよりも、怒る。嘆く。わめく。ののしる。なじる。皮肉る。蔑視する。愚痴る。
やり慣れてしまうと、こういうものは、平気で、度を過ごしますねいわないでおこうと思っても、気がついたら、すでにいっぱい口からでてしまっている、なんてことが多いですね自分のそのときどきの、いろいろな感覚を、表現する。特に、積極的に、自分が肯定したいところ、前向きだという感じのこと、開いていくように見えるもの、明るさへ向いているもの、などを、感じたときに、子どものいるところで、感じたままに、具体的なことばで表現するその習慣を、自分で身につけようと、日頃から、自己を培うくせが、大事だと思います。

 

母はたっぷり寝ていられるのなん


子供を大きくすることではなくその心

あの大木。

ほら、えるのかな。
に見える。
「うーん。
あの楠の大きな木。
ツヨシ。
なにかに見えるんだよね。
やっぱりそうだ。
ね、うーん、なにに見うんうん。
そうだ。
熊がわーっと立ち上がったところああ、大きい熊。ほら。ね」
ほんとーツ。すごい。
うん、熊だ。
手を上げて3
そう。両脇に、大きな両手!
大きい手!
あの楠二百年も三百年も生きてるのよ、きっと

ふーん。すごいね。おじいちゃんより長生き?
そう。おじいちゃん、六十五。
育てってこんなに大変なものだとは思わなかった。

母親は必要ない。あのクスノキは三百年
ふーん
分かっても分からないでも、つまり、知識としては理解できないでも、か向うの大きな木に、尊敬の念を抱いていることが分かる。
ただお母さんが、なんだだから、一度立って、ポイーンと小石を蹴ってから、母さんがまだそこにしゃがんで、をあこがれの目で眺めているので、も一度、ツヨシも、その横にしゃがんでふーん
楠の老木そんなことをしてたら、待ってるバスが、来てくれちゃいますね。
と感じあって、懸命に待たなくても、ひら暮す。
感じあうことを、ひとつひとつ確かめあおうとしだしたら、時間がいくらあっても足りないくらいと、そんな毎日であれば、庭の草花のひとつをほめそやした次に、ツヨシくんの、いサクラ草の上にかかってた柿の枯れ葉を、そっと取ってやってたのを
子どもがせっせと砂のお城をつくった。
子どもがせっせと砂のお城をつくった。

体験することはいつまでたってもないでしょう。

子供が本を読んでいる間「あれで、さっき小さあっ、明るくなったーって、サクラ草、ほっとしてるよ」
なんて、ちょっと確認しておいてやれますねほめるっていうのは、そんな感じの、さりげなく深い肯定のひとことでいいわけです。
たいそうなほめ方は、いらないのですね。
ごほうびつきでほめることがほめるということと、おだてるということの区別のできない人がいます
さりげなくほめてやりなさいよというとああ、おだてときゃいいんですねなんて。
子ども同士自由な遊びを展開してわれを忘れて夢中

勉強が高度になる高学年

ちょっと違うのです。
おだてるのは、率直な感情表現ではないのですね。子どものことは、とにかくうわべでごまかしゆがみを生むて、小手先であしらっていたらいいと思うのは、えのように思われます。
子どもというものをあまりに知らない浅はかな考子どもは、動物的な感受力を、大人よりは生き生きとしっかり持っています。
頭の知識に照らしあわせて、物事をとらえるというのでは、大人に及ばないものの、心の奥深くいわば生理的な直覚力で、自分の心にかかわりがあるかないかを選び分けるというようなことはずっと子どもの方が、端的にしっかりやってしまいます。
口先でおだてているのか、心から深く認めるという気持でほめているのか、のなかへの染み方が、まるで違うのです。

学校九十一歳が第二次