中学生を通して圧倒的

学校では教えられなかった。

母親から言われるようなことがあってはいけない。
しまうのが、二人がかりでがたがたと大立ち廻りのように、親の態度がどうであるかが、ひとつの決め手片付けて、部屋がすっきりしたとき、このあとの
ほらショウちゃん、きれいになったでしょ。
気持いいでしょう?
ね、お返事は?
という、してあげたのよ、いい気持だといってよ、の子どもの意欲をすっかり減退させてしまいますね。
いいなさいよ、という押しつけは、せっかく
こんなに気持いいのだから、あしたもちゃんと片付けるのよ。いつでもいつでも、立って片付けるのなんて、ご免よ。分かった?ちゃんとお約束できる?
母さんが先に
と、こういう押しつけ。子どもの心に気持よく届くことばでありませんねわーツ。広い!おもちゃ、全部片付けたら、うちじゅう広い!と、母親が感激すると、わーツ。広いと、子どももついつられて、とび廻りながら歌うように、広い、広い、ヒロイよねッと喜んでいる。

しつけの基本
「ショウ、私がいくら手伝ったからって、でも、あれだけ全部出してたのに。ショウ、よく片付けたね。
片付けちゃつたもソねえ」
ハハハ、片付けちゃった、片付けちゃつた、カタヅけた
片付け終って、楽しい思いが、そこで定着する。
そんな体験を、生き生きと繰り返すのですよすると、片付けの愉しさに向かう意欲がいつしか身についてしまう。
やる気がないのねを繰り返して、ほんとに母さんがあれだけいうのだから、自分がやる気がないのは、全く確かなようだと、子どもに思わせるクセをつけるのではどうしようもない。
心遣いがことばに出るというのもほんとだし、ことば遣いが心の向きを変えるというのもほんとです。知らず知らずなにを習慣づけてしまうのか、ということです、大切なのは。
悪いことをする、罰したい
悪いことを次々としたいだけする
やめなさいよ、マサト。
ねえ、やめなさいっていうのに

エへへ、と笑いながら、さっきから、小1のマサトは、すやすや眠っているアユミのフトンをクマのぬいぐるみの片足を持って、そのクマの頭で、ぽんぽん叩いているのです。

子どもがなにをするやら分からない

アユミの足の届いていない、フトンの端を叩いているうちはまだいいのですが、お母さんが悲鳴に似た声をあげ、制止しようとあせればあせるほど、むしろ、それで逆に調子づいて、叩く場所が移動し、アユミの胸元にあがっていくので、眠っているアユミが、ピクリと動いて、なにやら甘い声を出して顔の向きを変えました。
ねえ、もう、起きちゃうじゃないの。
かりするのよォー

やめなさいったら。
やめて。
どうして、そんな悪いことばこちらのいらだちが、マサトには、少しも届きません。
その程度のことならまだいいのですよねえ。
この1カ月の間に、マサトのしたひどいことをあげてみると、そんなことどころの悪さではないのですよ。

先生はその横顔をちらっと眺めて子どもなのにどうして小さいのでしょうまず、お母さんがスーさんに立て替えておいてあげた産地直売のミカン一箱の代金返しに来てくれて、それを玄関横の電話帳の上に、つい置きっぱなしにしていました。それが悪いといえば悪いのですが、その三千いくらのお金が、二時間ほどの間に、無くなっていたのですね結局、事態がはっきりしたのは、四日後でした。
シンタくんのお母さんから、なんのことやらお礼めいたことをいわれ、これは変だと気づいてまわりのお母さん方にも、恥をしのんで尋ねて廻り、ついには、父親に厳しく問いつめてもらって、マサトがやっと、白状したことなのですが、その三千いくらを持ち出して、はやりのカードのついた一箱一五0円のお菓子を、なんと二〇個も買い、カードは自分がとって、お菓子は、おばちゃんにもらったといえといって、友達にやり廻ったというのでした。

子どもに語ってやるべきなのです

それから、隣の家の猫についての大騒動いなくなって、三日もたつ、といって、隣家の猫好きの奥さんが、随分悲しんでいたのですねなんと、マサトが、道路拡張で立ちのきになった空地の、一番奥まったコーナーに、もう一カ月も放置されている洋ダンスの引き出しへ、猫を放り入れ、閉じ込めたまま、忘れてしまっていたのでした。だれも近よらないところなので、しきりに啼いていたはずの猫の声が、だれの耳にも届かなかったのですたまたま、なんのためか柵を乗り越えて空地に入り込んでいた中学生達が、空耳かと思われるような力のない猫の啼き声を耳にして、つきとめて、げっそり弱り切っている猫を取り出す。まわりの家々が、中学生らの普通ではないようなざわめきに気づいて、それが三日前からいなくなっていた、マサトくんの隣の家の子猫と判明したのでした。
向いの家の、元は野良で噛みぐせのある雑種の犬を、自分は馴れてなじんで仲良しだから、抱いたり倒されたり一緒にころがっているうちに、首輪のくさりをはずしてやって、そのままでマサトは帰ってきてしまった。

先生としてしっかりしたまえである。

年中つながれている犬が、離されて自由になると、興奮しすぎて、危険なのですね。通りがかりの大学生が、やばいと思って逃げかけたら、つられて猛然と追いかけて、必死で逃げると、必死で追う。ズボンのすそを引き裂かれ、飛び出していった向いの長男の高校生が
その興奮の鎮めにくい犬をなんとかうまく鎖につないだので、ものの、ちょっと大変だったのです。
それ以上の大事に至りはしなかった溝に石を放り込んで、ほんの少しの雨で、道に水があふれだして、三軒向うの主人が腹を立てているのを見て、お母さんは当分その家の前を通る気になれず、廻り道を行き来したり。

      学校から帰
      子ども自身の力で修復できるものではない
      先生は忙しがってあまり見てくれないらしい


子どもなのにどうして小さいのでしょう 育てた人の書いたもののほう 成長するのです。

育てってこんなに大変なものだとは思わなかった。

教育責任を問うものがほとんどなかった。

勉強をしておかなくてはならない。
自分を通し抜いて、お母さんに勝ってやったワイという気持が、確かに一方にちゃんとあるのに、片一方で、なにかこだわりが生まれているのですねイド欲望と、精神分析のフロイトのいういい方を借りてくると、ゴ超自我の対立葛藤のあらわれなのです。
それはつまり、スわがままな子だって、自分のわがままを通し抜いたあとは、不快感を覚えずにはおれないのです。
自分のわがままに、思いもかけないイド欲望は、許されれば、自分のわがままをどこまでも通したいと願ってやまない自分です。

中学生の頃にもろくも脱落したのです。
それに対して、スーパーエゴ超自我は、人に認められるためには、どんないいかっこ
でもして見せたいものだ、と願ってやまない自分です。
ときに、イドが、心の全領域に広がってしまう。振る舞いは、すべてイドがとりしきる、ということがあります。そういうときは、他人の迷惑などかえりみない、わがままのし放題ということですね。ところが、そのとき、片方の自分であるスーパーエゴは、抑えられっぱなしで姿が隠れているものの、決して無くなるものでなく、抑えられていた反動で、いつかどんな形でか、イドを押しのけて、表に出てくるものなのです。
ひとの前で、ことさらに見栄をきって見せるような振る舞いをして、とにかく、たいという衝動を、どんな形でか、必ずあらわさずにはすまないのですねひとに認められ
そういう、イドとスーパーエゴの葛藤を、非難してはならないわけです。

子どもにとって安心感のふくらみ

つまり、「散々わがままをし続けて、今度は、散々ひとに認めてもらいたいって、いうことなのよ!?」と、あざわらうことによって、相手を恥ずかしがらせることで、とするのでは、ますます、イドが出るときは強いイドが強すぎるようになり、反面、が強いときは、強すぎるものになって、いよいよ、人格二面性、という、当人さえ、ラで、手がつけられない、という習性ができるのです。
いったいどう反省を促そうスーパーエゴ自分がバラバむしろ、「散々わがままをし続けたのだもの、今度は、反対に、散々ひとに認めてもらいたい気持になるのが、当然というものさ」と、しっかり、両面性を認めてやれば、当人が、イドもスーパーエゴも、まさに自分の本質だと認めて、両者の間のバランスを、うまくとりたくなってしまうのです。両者のバランスをとる自分が、第三の自分。それがつまり、エゴ自我です。

わがままを通し抜いて、通し抜いたおまえが、よ。おまえは身も心も健康な子どもだものと、ごらんなさい。
100パーセント気が晴れない。

子どもの世界にも強くかぶさっている。子どもを抱き込み続けてそれ、分かるわしみじみ、わがままのあとの子に、いってやってわがままのあとの空しさいっぱいの、子どもの心にじんとぬくもりが宿りますよ。
かならず。
そういう、イドとスーパーエゴの葛藤を、非難してはならないわけです。
つまり、「散々わがままをし続けて、今度は、散々ひとに認めてもらいたいって、いうことなのよ!?」と、あざわらうことによって、相手を恥ずかしがらせることで、とするのでは、ますます、イドが出るときは強いイドが強すぎるようになり、反面、が強いときは、強すぎるものになって、いよいよ、人格二面性、という、当人さえ、ラで、手がつけられない、という習性ができるのです。
いったいどう反省を促そうスーパーエゴ自分がバラバむしろ、「散々わがままをし続けたのだもの、今度は、反対に、散々ひとに認めてもらいたい気持になるのが、当然というものさ」と、しっかり、両面性を認めてやれば、当人が、イドもスーパーエゴも、まさに自分の本質だと認めて、両者の間のバランスを、うまくとりたくなってしまうのです。

育てるスキンシップとはどんなものだろうか。

両者のバランスをとる自分が、第三の自分。それがつまり、エゴ自我です。

わがままを通し抜いて、通し抜いたおまえが、よ。おまえは身も心も健康な子どもだものと、ごらんなさい。
100パーセント気が晴れない。それ、分かるわしみじみ、わがままのあとの子に、いってやってわがままのあとの空しさいっぱいの、子どもの心にじんとぬくもりが宿りますよ。
かならず。
るのですねそれも、くどくど咎められると、だのに、やる気のないときに咎められる、れて、平気で聞き流すようになってしまう。
咎められることに馴それに、ケンイチくんの今の様子を見ていると、ただ茫然としているというのではないでしょう。
やる気がないといっても、なんにも感じなくて子どもの内なる、生き生きした動きというものがあるのですね。

学校に任せきりというのは無責任です。

むしろ、なんでもかでもを、見たい、確かめたい、感じたい、愉しみたいと、動いています人生の経験が、なにしろまだ浅いのですから、新鮮で強い興味や関心が、まわりのあらゆるものそのひとつひとつに向けられざるを得ない、といった調子なのですね大事なこと、その、ひとつのことだけをしているかしていないかという一点のみに目を向けて、監守のような目を光らせてばかりではなくて、大人の方が、子どものしていること、したがること、興味や関心の向け方に、もう少し幅広く、大人自身の興味や関心を向けてやらねばそして、大人の方の興味や関心の心の動きを、生き生きと伝えてやる興味や関心が一瞬ちらりとでも合致したら、子どもは、それまで大人のいうことはすべてハイそのとき、ふと、興味のある目付きに早変りして、ハイと空返事して聞き流していたのに、顔を見上げたりするのですよ。

      母車を押すことはおばあちゃんにもあるいは保育所
      母さんは悩ん
      子どもは誰に言われなくてもちゃん


子どもを抱き込み続けて 中学生と福岡県 勉強しているのであって