先生とか国語

教育の専門家ではない親は悪い

ゼッタイニ絶対にいじめない?ゼッタイノゼッタイノゼッタイニ

じゃ指切りユビキリ。だからアイスだよなにいってんの、はい、指切り
母と子は小指をからませて、
ユビキリゲンマン、ウソツイタラ、ハリセンず、はい、アイスでしょもうオ、しかたないわね
ノーマソ
ママの作ったホームメイドのアイスキャンディは、特別のおいしさです。ヒロヤがこれほど気に入ってくれているのが、ママには嬉しい限りではあるものの、こんなやりとりで終ってしまっていいものかと、ママはいささか気になりながら、それ以上のいい聞かせようも思いうかばないのでした。歌う調子のやりとりで、わが子の心は、アイスキャンディに向きっぱなし。
いい気な顔で、ペロペロとなめているかと思うと、さっと、走ってどこかへ行ってしまったのでどこへ行くの?
教育は満点を基準にして行なわれる。

中学生の頃からそのようなことを時々もらしていた。


と、あわててお母さんが声をかけたときには、もう姿は見えません。
こういう問いつめ方は、子どもの心の奥の方に、親の思いが噛みあっていく、ないものですね。まるで噛みあっていない歯車の空廻りのよう。
という風にはならこれでは、いじめの問題の解決より、アイスキャンディがやはり先行してもやむを得ない。
心と行いの二重構造を、しっかり見極める

ヒロヤ、私の作ったアイスキャンディ食べる?もうできてると思うのK-·きょう作ったの?やったア!

ちょっと待ってね。ほらほらほら、ハイどうぞ。
「ウーン。おいしい。

 

子どもにほめることも忘れていません。


先生に呼ばれて注意を受けたのよ。

あっ。冷たいツ。ハハハ。へへへと。ウーンカリカリ、わ、おいしそうに食べるウヒロヤ」
ペロペロ

おいしい
よ、ありがとう
おいしい。

ヒロヤ、食べながら聞いて。
母さん、話したいことあるの。
ヨウスケくんの母さんから、聞いた。
ヨウちゃん泣いてたって
ふーん。どうして?
「あ、したたりおちちゃう。受けてあげよう、ほらほら。あやうくセーフ」
ハハハ。パンツ汚れなくて、よかったよかったと、子どもが大人の分別のようないい友よかったよかったと、はずむ調子で、母親も、それに同調。そして基本的に調子を変えずで、アツシくんやヒロヤに、つつかれたり、ひどいことをいわれたって。泣いてたってああ、ヨウスケは、ちっともはっきりしないんだよ

ヨウちゃんがはっきりしなくて、あんたやアツシくんがいらいらするの「そう。仲間に入るンなら、もっとちゃんとやらなきゃ。ヨウスケだって、ね」
子どもに本当の解放感を味わわせてやりたいと願う。

勉強なんだ客観的に事実が判然としていない以上、こういう場合、通りいっぺんにいい聞かすのでは空廻りだし、わが子のいい分だけですべてが理解できたと思ってしまうのも、うわすべりになりますね往々にして、親の前では実にいい子ぶりを通している子が、子ども同士のときは、自分のいい分を通せるとなると、相手を人と思わないで、通したいだけ我を通し、相手の痛みを一向に感じないで平気でいる、ということがありがちです。つまり、いじめですねそういう場合、実は、知らず知らずの間に、うちの子はいい子だという評価を、親からかち得ていて、そのイメージが破れることをおそれているわけで、もし、親から
なんだ、おまえつて、そんな子だったのかと軽蔑されるのがこわくてたまらないのですね。
子供に安らぎを与えることは可能です。
子供に安らぎを与えることは可能です。

子どもに甘い

子どもにしようとしてと同時に、ここが実に微妙なバランスなのですが、そういう子の親というものは、親も親でまた、うちの子はいい子だというイメージが破れることを、子ども以上にこわがっているものなのですね。
親も子も、子のうわべの装いを、うわべのものだと思いたくはない。子の真実の姿と信じ続けたい。
知らず知らずのうちに、いわば、必死の思いになってしまっています。

うちの子に限って!
だから、と絶句し、よそからわが子の思いがけない問題を聞かされたときは、現実をどうにもこうにも認めようとはしないわけです。
親が親が、ひとに向かって、うちの子に限って!といい張ってくれるだろうと信じる限り、子どもは、外でたとえどんなはしたないことをしていようと、親には絶対に知られないように、必死で、とぼけたりごまかしたり、ウソの上塗りを重ねて、親に、外での自分の振る舞いの現実を、隠し通しますねいじめの問題に、大人がなかなか迫っていけないのは、んだ形でがっちりでき上ってしまっているからなのです。
子ども部屋を与えてみてもその部屋を使わず

しつけしだいで決まります。

そういう心の二重構造が、ゆがみ、ひずこの二重構造を破るカギを握っているのは、実は、いじめる側の子どもの、親ですよ。
わが子が、どうやらよその子をいじめているらしいと、聞き及んだとき、これはどうでもと、いじめる子の親が「うちの子に限って、そんなはずはない。それが本当かどうかは、それでは、親自身がしっかり本人に問いただしてみれば、分かることだ!」と気張ってしまったら、もうなかなか現実の二重構造を、解体する作業は、困難ですね。
それができないどころか、いじめは、よそで、家に帰ってきたら、親の前で、もっとけろりと、もっと激しくなっていく場合が多い。
いい子になってねでも本人は二重構造は、いよいよ激しいものになってしまうわけです。
わが子のいじめの現場を見るとか、いい逃れようのない状況をよそからつきつけられたとき、いじめる子の親は、わが子に、腹を立てて裏切り者めというような、罵倒や叱り方を、してしまいがちなのですね。

母さんでいいのでしょう

先生になるのだという自覚もない。

しつけをするのはきちんとした着物を縫うためです。

幼稚園における幼児の行動を観察した研究による
それが、第一反抗期の意味なのです。
でも、それでは結局、いっときの満足で、いつまでもの満足にはならない、という、てしまえば、なんでもいやの時期は、やがて、自然と終ってしまうものです。
学習ができなんでもいやという子を、大変だ、素直な返事をさせようとやっきになれば、こんなわがまま、放っておけないと思い、なんとかして子どもは逆に、いよいよ反抗的になりかねません。
そういうとき、子どもが、いやとまたしてもいうのを聞いて、
なんと憎らしいと思うでしょう。でも、わが子を憎らしい!

教育熱とやらもまゆつばものである。
と思ってしまえば、子育ては、たちまち浅瀬に乗りあげて、
順調な航海が到底続けられないということになりますねなんでもいや
えなきゃ。そして、というのを見ていて、わー、まさに反抗期。順調な育ち友いや!に対する、大人の対応のしかたを、工夫しなきゃあ。
可愛い!
と思
素直さを、うまく引き出していくためには
さあ、ごはんよーと思わず、食事の準備ができたので、キョウイチを呼ぶと食べないもン!と、今はまさに反抗期の、例の反対ことばが返ってきました。
このとき、どうして食べないのよ!と、いらだったりすると、だって食べないもん!と、反対のための反対が、もっと勢いよく返ってきます。
ほんとうに、食べないのね!?

個性を包含

と、お母さんがいらだっていいます。反復的にキョウイチは、
ほんとうに、食べないよー!
それじゃ、片付けてしまうよ。いいのね!
いいよーと、反射的に答えたものの、反抗のおもしろい時期だから、つい反射的に反抗しているわけで、本当におなかがすいていなくて、絶対に食べられないから食べたくないというわけでもないため、いいよ!ということばが、今や、すこーし、うつろです。それで、ついお母さんが、見透かしたように、バカにしたように
ほんとうは、おなかがすいてるンじゃないのよ。強がりばかりいって。どうして反対ばかりいうのよこんな質問は、心理学者にすべきですよ。子どもに答えさせるのは無理。

子どもをほめることが苦手という人子ども同士自由な遊びを展開してわれを忘れて夢中反抗期の意味を、子どもが解説できるわけがない。
素直じゃないわね。もとのキョウイチはどこへ行ってしまったのよキョウイチは、ここにいますよ今、目の前のキョウイチが、もとのキョウイチですよ。母親がそんな変なことをいったら、反抗期の反対の真っ只中で、子どもが不安になるばかり
ねえ、お願いだから、ご飯を食べてよ。親に従いなさい。もっと素直に。
ほんとに片付けるわよ。いいのね。いいのね。あとでほしい、食べるったって、ねえ、もう食べさせないからね。
いいのね子どもは、もはや引きつった声でいいよ。

学校なのだ

片付けていいよ。食べないでいいよ
なんだか気持の奥を認めてもらえない不満が、そうして反対をし続けながらも、つのる一方。

もう。冗談はよしなさい。ほんとに片付けてしまったら、困るのはキョウイチでしょうが冗談じゃないよ!冗談いうな!これは、子どもの本気の叫び声!なにいってンのよ。あンたが、冗談でしょうが!親は、子の叫びの真意が分からないやかましいワイ
まあ、四歳で、親に反抗!

いうな!なんにも!!

いわせるのは、だれなのよ。今頃から、こんなにわがままでは先が思いやられる!
それこそ、親がこんな対応を繰り返していたら、先が、まさに思いやられます反抗期の子どもの反抗には、もっとあっけらかんと、対応するのです。
さあ、ご飯よー

食べないもああ!

育てられます。

キョウイチ、食べないのかね

ああ、食べないも食べないのなら、しかたがないわねこれは、皮肉でなく、しっとり自然に、食べないもン、ね
じゃ、とりあえず、片付けるといったかと思うと、親は、思い入れも、素直にしっかり
ためらいもなく、さらさらと、お茶碗を片付け、おなべを片付け、すべて片付け、といった向きへの動き。
それを見て、それこそ、その動きに対して、さっと機敏に、親の行いへの新たな反対行動をとら
なければ、と、さっと反応するわけ。
身も心も、お茶碗を片付けようとそちらを向いている脇のところに、お母さんが、いつの間にかキョウイチくん、きちんと坐っていておハシ、ないじゃないか!
といっています。

      子どもについての相談を受けたときに私
      先生自分の息子は本当にかわいいと思う。
      母の姿を現した面があります。


子ども同士自由な遊びを展開してわれを忘れて夢中 母親というのが特別ではなくなっている様子です。 中学生と福岡県

中学生を通して圧倒的

学校では教えられなかった。

母親から言われるようなことがあってはいけない。
しまうのが、二人がかりでがたがたと大立ち廻りのように、親の態度がどうであるかが、ひとつの決め手片付けて、部屋がすっきりしたとき、このあとの
ほらショウちゃん、きれいになったでしょ。
気持いいでしょう?
ね、お返事は?
という、してあげたのよ、いい気持だといってよ、の子どもの意欲をすっかり減退させてしまいますね。
いいなさいよ、という押しつけは、せっかく
こんなに気持いいのだから、あしたもちゃんと片付けるのよ。いつでもいつでも、立って片付けるのなんて、ご免よ。分かった?ちゃんとお約束できる?
母さんが先に
と、こういう押しつけ。子どもの心に気持よく届くことばでありませんねわーツ。広い!おもちゃ、全部片付けたら、うちじゅう広い!と、母親が感激すると、わーツ。広いと、子どももついつられて、とび廻りながら歌うように、広い、広い、ヒロイよねッと喜んでいる。

しつけの基本
「ショウ、私がいくら手伝ったからって、でも、あれだけ全部出してたのに。ショウ、よく片付けたね。
片付けちゃつたもソねえ」
ハハハ、片付けちゃった、片付けちゃつた、カタヅけた
片付け終って、楽しい思いが、そこで定着する。
そんな体験を、生き生きと繰り返すのですよすると、片付けの愉しさに向かう意欲がいつしか身についてしまう。
やる気がないのねを繰り返して、ほんとに母さんがあれだけいうのだから、自分がやる気がないのは、全く確かなようだと、子どもに思わせるクセをつけるのではどうしようもない。
心遣いがことばに出るというのもほんとだし、ことば遣いが心の向きを変えるというのもほんとです。知らず知らずなにを習慣づけてしまうのか、ということです、大切なのは。
悪いことをする、罰したい
悪いことを次々としたいだけする
やめなさいよ、マサト。
ねえ、やめなさいっていうのに

エへへ、と笑いながら、さっきから、小1のマサトは、すやすや眠っているアユミのフトンをクマのぬいぐるみの片足を持って、そのクマの頭で、ぽんぽん叩いているのです。

子どもがなにをするやら分からない

アユミの足の届いていない、フトンの端を叩いているうちはまだいいのですが、お母さんが悲鳴に似た声をあげ、制止しようとあせればあせるほど、むしろ、それで逆に調子づいて、叩く場所が移動し、アユミの胸元にあがっていくので、眠っているアユミが、ピクリと動いて、なにやら甘い声を出して顔の向きを変えました。
ねえ、もう、起きちゃうじゃないの。
かりするのよォー

やめなさいったら。
やめて。
どうして、そんな悪いことばこちらのいらだちが、マサトには、少しも届きません。
その程度のことならまだいいのですよねえ。
この1カ月の間に、マサトのしたひどいことをあげてみると、そんなことどころの悪さではないのですよ。

先生はその横顔をちらっと眺めて子どもなのにどうして小さいのでしょうまず、お母さんがスーさんに立て替えておいてあげた産地直売のミカン一箱の代金返しに来てくれて、それを玄関横の電話帳の上に、つい置きっぱなしにしていました。それが悪いといえば悪いのですが、その三千いくらのお金が、二時間ほどの間に、無くなっていたのですね結局、事態がはっきりしたのは、四日後でした。
シンタくんのお母さんから、なんのことやらお礼めいたことをいわれ、これは変だと気づいてまわりのお母さん方にも、恥をしのんで尋ねて廻り、ついには、父親に厳しく問いつめてもらって、マサトがやっと、白状したことなのですが、その三千いくらを持ち出して、はやりのカードのついた一箱一五0円のお菓子を、なんと二〇個も買い、カードは自分がとって、お菓子は、おばちゃんにもらったといえといって、友達にやり廻ったというのでした。

子どもに語ってやるべきなのです

それから、隣の家の猫についての大騒動いなくなって、三日もたつ、といって、隣家の猫好きの奥さんが、随分悲しんでいたのですねなんと、マサトが、道路拡張で立ちのきになった空地の、一番奥まったコーナーに、もう一カ月も放置されている洋ダンスの引き出しへ、猫を放り入れ、閉じ込めたまま、忘れてしまっていたのでした。だれも近よらないところなので、しきりに啼いていたはずの猫の声が、だれの耳にも届かなかったのですたまたま、なんのためか柵を乗り越えて空地に入り込んでいた中学生達が、空耳かと思われるような力のない猫の啼き声を耳にして、つきとめて、げっそり弱り切っている猫を取り出す。まわりの家々が、中学生らの普通ではないようなざわめきに気づいて、それが三日前からいなくなっていた、マサトくんの隣の家の子猫と判明したのでした。
向いの家の、元は野良で噛みぐせのある雑種の犬を、自分は馴れてなじんで仲良しだから、抱いたり倒されたり一緒にころがっているうちに、首輪のくさりをはずしてやって、そのままでマサトは帰ってきてしまった。

先生としてしっかりしたまえである。

年中つながれている犬が、離されて自由になると、興奮しすぎて、危険なのですね。通りがかりの大学生が、やばいと思って逃げかけたら、つられて猛然と追いかけて、必死で逃げると、必死で追う。ズボンのすそを引き裂かれ、飛び出していった向いの長男の高校生が
その興奮の鎮めにくい犬をなんとかうまく鎖につないだので、ものの、ちょっと大変だったのです。
それ以上の大事に至りはしなかった溝に石を放り込んで、ほんの少しの雨で、道に水があふれだして、三軒向うの主人が腹を立てているのを見て、お母さんは当分その家の前を通る気になれず、廻り道を行き来したり。

      学校から帰
      子ども自身の力で修復できるものではない
      先生は忙しがってあまり見てくれないらしい


子どもなのにどうして小さいのでしょう 育てた人の書いたもののほう 成長するのです。

育てってこんなに大変なものだとは思わなかった。

教育責任を問うものがほとんどなかった。

勉強をしておかなくてはならない。
自分を通し抜いて、お母さんに勝ってやったワイという気持が、確かに一方にちゃんとあるのに、片一方で、なにかこだわりが生まれているのですねイド欲望と、精神分析のフロイトのいういい方を借りてくると、ゴ超自我の対立葛藤のあらわれなのです。
それはつまり、スわがままな子だって、自分のわがままを通し抜いたあとは、不快感を覚えずにはおれないのです。
自分のわがままに、思いもかけないイド欲望は、許されれば、自分のわがままをどこまでも通したいと願ってやまない自分です。

中学生の頃にもろくも脱落したのです。
それに対して、スーパーエゴ超自我は、人に認められるためには、どんないいかっこ
でもして見せたいものだ、と願ってやまない自分です。
ときに、イドが、心の全領域に広がってしまう。振る舞いは、すべてイドがとりしきる、ということがあります。そういうときは、他人の迷惑などかえりみない、わがままのし放題ということですね。ところが、そのとき、片方の自分であるスーパーエゴは、抑えられっぱなしで姿が隠れているものの、決して無くなるものでなく、抑えられていた反動で、いつかどんな形でか、イドを押しのけて、表に出てくるものなのです。
ひとの前で、ことさらに見栄をきって見せるような振る舞いをして、とにかく、たいという衝動を、どんな形でか、必ずあらわさずにはすまないのですねひとに認められ
そういう、イドとスーパーエゴの葛藤を、非難してはならないわけです。

子どもにとって安心感のふくらみ

つまり、「散々わがままをし続けて、今度は、散々ひとに認めてもらいたいって、いうことなのよ!?」と、あざわらうことによって、相手を恥ずかしがらせることで、とするのでは、ますます、イドが出るときは強いイドが強すぎるようになり、反面、が強いときは、強すぎるものになって、いよいよ、人格二面性、という、当人さえ、ラで、手がつけられない、という習性ができるのです。
いったいどう反省を促そうスーパーエゴ自分がバラバむしろ、「散々わがままをし続けたのだもの、今度は、反対に、散々ひとに認めてもらいたい気持になるのが、当然というものさ」と、しっかり、両面性を認めてやれば、当人が、イドもスーパーエゴも、まさに自分の本質だと認めて、両者の間のバランスを、うまくとりたくなってしまうのです。両者のバランスをとる自分が、第三の自分。それがつまり、エゴ自我です。

わがままを通し抜いて、通し抜いたおまえが、よ。おまえは身も心も健康な子どもだものと、ごらんなさい。
100パーセント気が晴れない。

子どもの世界にも強くかぶさっている。子どもを抱き込み続けてそれ、分かるわしみじみ、わがままのあとの子に、いってやってわがままのあとの空しさいっぱいの、子どもの心にじんとぬくもりが宿りますよ。
かならず。
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つまり、「散々わがままをし続けて、今度は、散々ひとに認めてもらいたいって、いうことなのよ!?」と、あざわらうことによって、相手を恥ずかしがらせることで、とするのでは、ますます、イドが出るときは強いイドが強すぎるようになり、反面、が強いときは、強すぎるものになって、いよいよ、人格二面性、という、当人さえ、ラで、手がつけられない、という習性ができるのです。
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育てるスキンシップとはどんなものだろうか。

両者のバランスをとる自分が、第三の自分。それがつまり、エゴ自我です。

わがままを通し抜いて、通し抜いたおまえが、よ。おまえは身も心も健康な子どもだものと、ごらんなさい。
100パーセント気が晴れない。それ、分かるわしみじみ、わがままのあとの子に、いってやってわがままのあとの空しさいっぱいの、子どもの心にじんとぬくもりが宿りますよ。
かならず。
るのですねそれも、くどくど咎められると、だのに、やる気のないときに咎められる、れて、平気で聞き流すようになってしまう。
咎められることに馴それに、ケンイチくんの今の様子を見ていると、ただ茫然としているというのではないでしょう。
やる気がないといっても、なんにも感じなくて子どもの内なる、生き生きした動きというものがあるのですね。

学校に任せきりというのは無責任です。

むしろ、なんでもかでもを、見たい、確かめたい、感じたい、愉しみたいと、動いています人生の経験が、なにしろまだ浅いのですから、新鮮で強い興味や関心が、まわりのあらゆるものそのひとつひとつに向けられざるを得ない、といった調子なのですね大事なこと、その、ひとつのことだけをしているかしていないかという一点のみに目を向けて、監守のような目を光らせてばかりではなくて、大人の方が、子どものしていること、したがること、興味や関心の向け方に、もう少し幅広く、大人自身の興味や関心を向けてやらねばそして、大人の方の興味や関心の心の動きを、生き生きと伝えてやる興味や関心が一瞬ちらりとでも合致したら、子どもは、それまで大人のいうことはすべてハイそのとき、ふと、興味のある目付きに早変りして、ハイと空返事して聞き流していたのに、顔を見上げたりするのですよ。

      母車を押すことはおばあちゃんにもあるいは保育所
      母さんは悩ん
      子どもは誰に言われなくてもちゃん


子どもを抱き込み続けて 中学生と福岡県 勉強しているのであって

成長の度合い

勉強のためなら夜遅くまで起きていてもかまわない

度を重ねれば、もはや子どもは耐えられる限度を超えているのに、なにを!なにを!と顔をゆがめ歯を喰いしばり、ちらっとこちらに投げた一瞥には、ほんとの憎しみの色がべつ光っていたので、私は息をつめました。

もうやめた!
こちらが、耐えられなくて、この成り行きを中断したのです。
ちぇっと吐きすてるように、こちらを軽蔑して、私には、もうまつわりついて遊ぼうとはせずたったと走って遠ざかったその子の、後姿には、切れた人間関係なんてオレは慣れているのだからなという昂然とした思いがあふれているように見え、呼び返す資格が自分には無いように、私は感じて、茫然と見送っていました。
先生になるのだという自覚もない。

子どもたちにとって私の言動

こう安心できるなごやかさが共有のものになっていなければ、ちょっとした不用意な対応が、本気の対決を引き出してしまいかねない。大人と幼児の間にだって、本気の憎しみあいが、下手をすると現実に起こってしまう。実にこわいものです。
私は、ここで、人間の弱さと、人間の心の尊さについて語っているのだと、思います。
ちょっと悪いことをしたので、罰してやろうと、父親が叩いた。叩き方がひどくて、んとにどうされるやら分からない、という気になって、本気で身構えた。
子どもはほその子どもの本気さが、親を、真実、憎んでいるように見えたので、親は殺気立ち、親として、どうでも子を制圧すべきだと考えてしまい、熱い湯のお風呂の中に子を入れ、あやまるまで、出てはならんと申し渡した。子は、あやまらない。あやまるどころか、その目は本気で親を憎んでいるどうかしなければ、とうろたえた親は、風呂をもっと熱くたいて、これでもあやまらんか、と、親にあやまることを強要しているうちに、そこまですさまじい思いをさせる子に、親が本気の憎しみを抱いてしまっているのだった。

 

学校でも積極的にクラスの空気に溶けこむよう


小学校のときに教師

ひどい非人間的状況のなかでは、よりひどい非人間的感情が湧いて出るのですねどんどん湯を熱くしてしまったお風呂の中で、子がぐったりしたので、あげてみたときには、すでに全身が熱湯で大やけど。
気を失ったまま、ついに閉じた目を開けることがなかった。
実際に、そういう事件があったのでした。
罰を与えるという対処のしかたのこわい成り行き
なにか悪いことをするたびに、こらしめに罰を与える、というのは、心貧しい育て方だと、私は思います。
子どもの喜び、悲しみが、親に伝わり、ワッ、ることができ、また逆に、親の喜び、悲しみが、いるのだなと、親が確信できる。
伝わっているのだと、子が確信を持って安心す子にも伝わり、親も子を見れば、ああ、伝わってそういう関係が成立してさえいれば、もし、子がなにかでしくじったり、たときに、ちょっとした注意喚起のための、親のひと声、つまり少しはずれたことをし
ああ、ヨースケ。
子どもなのにどうして小さいのでしょう

子どもが曲がったなと感じたら親しくじったね!
というような、さりげなくしっかりした声のかけ方だけで、子どもは、ボクのしくじりが、ボク自身にとって、どれほど残念かを、親はちゃんと分かってくれているのだ。
ありがとう。
ボク、やり直すことができるから
と思う。いかに子が幼くても、き起こさせることになるのです。
しくじりの反省の上に立った、やり直しの意欲というものを、湧決まりきったパターンになっていて、子がなにか悪いことをしたら、おしおきや罰を与える、ということを繰り返していれば、子はいつしか、罰せられるたびに、心のなかで、しまったしまった。どうしてこう簡単にばれるような、こんなまずいことばかりをやっているのだろうと、苦々しく後悔することになり、あつたりするのですねもっとひどいことを、もっと巧妙にやるようになるだけで
すると、親は
ああ、罰が弱かったのだ。もっと罰しなければ、自分の悪いことに気づかないのだと思い込み、今度また悪いことをすると、もう、これどころでは済まないぞと、そのたびごとにエスカレートする悪さもひどくなり、罰もひどくなり。
いじめませんっていわなきゃ
いじめませんっていわなきゃ

子どもについてあれこれと考えてきました。

教育というのは皆無だったけれど悪さが巧妙になればなるほど、罰もくどくなり……。
そんな形で、子どもの時代を過ごした大人は罰は大切といい切りますね。
叩くなどという罰し方が、この先、まだまだ無くなりはしないのでしょう。
こわい……。
わが子をほめるのが、カ下手
ほめる以前に自分の気持を素直に表現してみる
「子どもを叱ることが多いですか、叱ることの方が多いのですね。
お母さん方の集まりで、ほめることの方が多いですか」
と尋ねると、どうやらたいていは、わが子をほめるのは、どうも苦手で……
と、困った顔をするお母さんを見ると、概して、普段の暮しのなかで、ものが、もともと得意ではないのだと思われるのです。
子どもを抱き込み続けて

教育というのはものを覚えさせることだけではない心

素直な感情の表現というそういうお母さんには、私は、「とにもかくにも、子どもの前で、自分の気持を、ことばにするということを、もっともっと普通のことだと思うように、慣れていけば」と提案し「子どもを見ると、ほめるか叱るか、どっちにしようか、とばかり思わずに、ほめるのでもなく叱るのでもなく、とにかくさらりと、気持を表現するのです」
と、助言します。
慣れると、ひとことのことばのなかに、気持が自然にこもるようになりますからね。

子供の性格に合

成長するのです。

母さんがおっしゃったことばを覚えていらっ伺います

母親から怖がられて非難されて
大人の小さくなった消しゴム、散らかった小片。椅子が動いていて歩き廻った形跡舞い落ちている白紙の宿題。さっと状況を察して、母親は、どうしてさっと宿題のプリント1枚ができないのとあせって咎めてしまわずに、心の中で、ゆとり、ゆとり。こんな風に思ってやる。
あふれてくるのね。
この子、好奇心の天使が心のああ、したいこと、感じたいことが、中に住んでいるのだわ、きっとと。
次々と、その天使があばれ廻って、中から突き動かしているのだわ。この子自身が、い思いも持っているに違いないと。

いじめをしていた陽太も正真正銘の本当の陽太
そう思ってやるのですよ、この一瞬に。
おそらくやりきれなそして、アハハハとはじめ快活に、おもしろくての笑いだのにやがて子のやりきれなさに添うていくいささか情ない苦笑いに転じて。そのお母さんの笑いの変化。子ども、聴くよそして、さっと。さっと。静かに真顔に戻ってハイッと、落ちたプリントに目をやったら、その真顔さに魅かれたケンイチは、思わず誘導されて動くロボットさながら、母親の意図の通りに、プリントを拾って、咎める、けなす、あせる、ただただ、親がさっさと、机の上に広げなおすでしょう。

子ども自身も身体

いらだつ、罵倒機敏でイキがよければし抜く。.。....一切要らないですね、こういうとき。
すっと突っ立って、脇から、ケンイチの広げたプリントに、て、母親の視点が、プリントから動かない。
シャキッと焦点を合わせて、見つめ48まだまとまりの湧いて来ないケンイチは、横にじっと動かないお母さんが気になって、すぐ目の横のスカートから白いブラウスの胸。その上の鼻の穴が二つ黒々に見えて、その上の目。お母さんの目が一点に注がれている。動かない目線をたどると、自分の前に広げたプリントの、最初のリンカンガッコウというカタカナ。ア、
林間学校だよな。ぐっと強く鉛筆を握っていて、ケンイチは、白いマス目ひとつひとつに、林.]……と書き入れていく。次はなにななんだ青空じゃないか。こんなの書けるよ。シンブンシ?新聞紙だよな。

中学二年だ母親というのが特別ではなくなっている様子です。お母さんの心と体のエネルギーが、すーっとプリントを見つめる、というひとつのしごとに集中しているのをケンイチくんは、体全体で感じて受けて、するといつしか、考えが湧くというよりも、気持がついそちらに集中し、たちまちのうちに、書き取りの宿題にその一瞬、没頭してしまっているってわけ。
で、やり終って途端に、お母さんが、ぐたぐたと文句をいうかと思いきや、全く、反対アオゾラ?

おツ。ケンの早技ツ。やる13と、明るく風船が裂けたようにいったので、つい、ケンイチくんも、テンポに乗って、
算数だって、オレのハヤワザーッ!と叫んで、椅子の上に一度上って、ぽいんと飛び降りて、カバンの中から、算数の教科書とノートを出して来て、あっという間に、算数も勢いづいて、に気をつけて
集中の流れに入ったのを見て、お母さんは、
外に出たらば、信号、信号。

父親にあこがれた。

赤信号と歌うようにいいながら、台所の方へ戻りはじめ、するとケンイチは、「そんなことは、あと、あと、まだあと。ほら、3のは、24掛ける15と。これを足すんだ。ええとえぇっと、えっとえっと。ほいほいこれででき上り。なに?ソガくんは、買いものに行きました?ああ、まず最初に、足しちゃえば、と。そして、ね。ほらりほらほらちらほらリチさーん」
にわかに大声で、母親に声を向け
もうあと、ね、三題で終り!

両親や教師

いつの間に、またこちらへ来ていたのか、やるときややるんだ、なア、セガレ
すぐ脇で、お母さんが、と侍のセリフじみていえば、ケンイチもその気になって、う、ハハウエドノー
と返します
遊びが遊びを生んでいつも部屋中いっぱい
うつとおしくいって聞かすと、いって聞かせた内容は、少しも伝わらないで、うつとおしさだけが、確実に伝わってしまう、やる気のない子に向かって、ということ。
大いにあるのですね親のやっていることって、ほとんどそればかりみたい。
次に、ショウちゃんは六歳。幼稚園から帰って来ると、とてもじっとはしていません。もう、夢中に遊んで、いつの間にか、こっちに怪獣がいっぱい。向うにミニカーが全部並んでいる。絵本はあっちこっちに開いたまンま。お父さんの部屋の中まで電車の線路は入り込んでいます。
お母さんは、ひとつの遊びをしたら、ちゃんと片付けてから、次の遊びへ入っていく、つけを、どうでもしたくてならないのですが、いくらいっても、聞こうとしません。

      高校生がわ
      母さんは何もわかっていないくせに…
      教育のためなら何でもすると親たちは言う。


母親というのが特別ではなくなっている様子です。 子どもを抱き込み続けて 子どもなのにどうして小さいのでしょう

子どもなのにどうして小さいのでしょう

子どもに力添えしてやるときなど

子供は本当
そして、どうしてキョウコのカバンへ?
した者がいれば名乗り出るように、という、ら、それは結局、分からずじまいなのでした。
気まずく重い先生の期待も空しく、だれがしたのやその事件の当時から、
もう学校には行かないというキョウコに、母さんは、ほんとにあなたがとったのかどうかと尋ねると母さんまでも疑っているといって泣きわめきます。
だってあなたに訊かなきゃ、本当のことが分からないじゃないのとなじる調子になるといいのよ、いいのよ。もう私は、死にたいと叫びます。
死にたいとまでいうくらいならと、すっかり母親は動転して、
やっぱりあなたが、ほしくて、メダルをとったの?

両親から豊富なスこのように女性は小さいころ
と、尋ね返してしまいます。
すると、
やめて、それで、キョウコはあらん限りの泣き声になり、どこかへ走って行こうとするので死んだらダメ!キョウコ!やめて。メダルひとつぐらいで、死ぬなんて!
学校も、その日から数日休んだということでした。
まあどうにか、二、三カ月もすると、元気は戻ったようなものの、なにかのきっかけで、めそめそ泣きだすと、止まらない。
それがすっかり習慣になった、というのです。
私は、泣きだすとやめられない心理というものを、前述の通りに説明しました。
そして、泣きやめさせようと、親が頑張り過ぎたようだと思うと、率直に感想を伝えました。
そんな気持など、あるはずもなかったろうに。泣きやめさせようと努めて、かえって子ども自身が分かってもらえていないと思い、結果的に後悔
ばかりを深めさせたようだ、と。
むずかしくいえば、こんなことは、子どもに説明したって分かることではないので、けが心がけておればいいことを書くならば、すでに前述したように、大人の側だ泣きたくもないのに、のだなア。

母さんもあります。

分かる
泣けてきてたまらないときは、泣きたくもないのに泣けてきてたまらないといって、泣きやまそうとしないで自然に、泣きやむのを待ってやればよかったのですね。そうすれば、子どもは無傷に戻ったから気が晴れた、というのではなくて、傷を生かして前に進もうという意欲がでてきて、ふと、自分のしわざであったかそうでなかったかを、さらりと表白してしまえたと思うのです。
この章のはじめに、育児不安の人に、この章を捧げると書きました。
わが子を、生んでしまった、という現実を、しまったしまった、と思えば、いつまでも、失敗が恐ろしくて、育児の先行きの不安に、おびえるばかりになりかねませんよ自分が先に泣きだしたい、いつでも後悔にとらわれて、身の、心の逃げ場がありません。
というのでは、だれよりも、母親自いろいろしくじって、できる。
しくじってこそ、子の持つ生命力で、親自身が、体験が身について、天地から心の糧を得て、後悔
でなく、どんどん育ちます。

教育者である夫のほう勉強しているのであってしっかり反省子は勝手に、子が育つのを見て、本気で生きようという気になってしまうのですよ。
わがまま、許しておけない
なんでもいやという時期の対応は?

三、四歳の頃の、いわゆる第一反抗期といわれる時期の、自己主張。可愛いですねさあ、ごはんよと呼べば食べないもンと、必ず、素直にハイとはいわないで、反対を主張します冗談じゃないのよ。早くいらっしゃいと親がいらだてばいらだつほど冗談じゃないよ。ぼく、食べないもンと、平気で反対し通します。
どうして、この頃、反対ばかりいうのかしらと、母親は、面食らってしまいますねまあ、あれが、わがままの芽生えといえば、芽生えでしょう。
でも、わがままは悪いことだ、とだけ単純にいってしまわないことが大事ですよ。

子ども自体

わがままとは、昔の漢字で我儘と書き、その意味は自分の思い通り、まわりのひとのことを考えず
ということですねわがままを通すの反対は、いいかっこをし過ぎるということですね。
まわりのひとを気にし過ぎる、自分を抑えてということになります。
つまりこれ、どちらも行き過ぎると、困るのですね。
さあ、ごはんよハーイ
よくおあがりよハーイ

お片付けしようね!
ハーイ!

育てられる

ほんとにいい子ねぇ
ハーイなんでもハーイで、お母さんが喜んでくれるのを見れば、それがやたらと嬉しいという時期はいわば、子ども自身がいいかっこをし過ぎるわけですよ。今まではお母さんが嬉しければ、ただただ自分も嬉しかった。
でもそればかりだと、自分が無いということに目覚めたのが、つまりその、反抗期なのですねいやだよ
しないよ﹂r食べないも
寝ないもお片付けなんかしないもーン
そのひとつひとつに、相手が、とまどい、うろたえ、いらだち、困りはてている。
子ども心に、今まで感じなかった、自己の存在感というものを感じて、新鮮なのですねつまり、自分が口にするたったひとことで、ひとを振り廻し、あわてさせることができる。
今までハーイハーイで一致できることに喜んで、充分に、その感覚を身につけたあとは今度は逆に、相手になびかないということで、相手に思いもかけない働きかけができるおもしろさを、心ゆくまでしっかり身につけたい、と思う。

      子どもにいろいろ語ってやることも大切だ
      勉強を教えてもらえるだろう
      母の世界の中


勉強しているのであって 先生になるのだという自覚もない。 母親というのが特別ではなくなっている様子です。

母親というのが特別ではなくなっている様子です。

高校時代をこれから過ごすのですか?

それは、子どもの心ただし、その違いを、ことばで子どもがこう違うよなどと、説明してくれるのであれば、だれにも分かりやすいのに、そうではないので、見過ごしてしまう大人は、平気で見過ごしてしまいます。
いや、大人が見過ごすというよりも、子ども自身が、しっかりと、自分がそういう見分けをしているのだということを、気づいてはいないのですからねえ。意識していない。無意識のうちに、自覚しないでやってしまうことですからね
うん、上手よ。ヒロコ、その調子でやればいいのだからね。しっかりお片付けなったわねぇ。やっぱり、あのお人形のドレッサー、買ってあげようかな?
できるように「ええ?買って買って。お片付けもっともっと、ちゃんとやるようにするから」

ほんとうかな?!
ほんとうほんと?
ほんとにほんと
そうかな?
子どもだけではありません。

子供では親のペットでも愛玩物でよくないのです。

ミコちゃんやチコちゃん人形の名、喜んじゃうよ。わーいわい

買ってあげる代りに、するよ、するする
毎日、ママがいわなくとも、お片付けは自分でするのよ
と、そうはいっておいても、買ってやるべきものを買ってやって、子どもは大いに喜んで、二、三日は、ほんとにいわれずとも、遊んだあとは、しっかり片付けたのに、四日、五日目は、もう元通り、出したものが部屋にいっぱいで、散らかしっぱなし。
ヒロコ。だめじゃないの。
ないわねえ

お片付けは、ちゃんとするって、あれだけ約束したのに、ちっともし「だって、ミコちゃんと、チコちゃんが、イモウトがほしいっていってるよ」

なにぃってんのよ。お人形は、もう二つでいいの。もう買わない!
だったら、お部屋のお片付けはしないからね

 

母親に反抗するわけです。


育てるここまで思い

「ちょっとヒロコ、なにぃってんのよ。ドレッサーを買ってあげる代りに、お片付けするって、ヒロコ、ちゃんと、そう約束したのよ」

だって、お人形買ってくれないもそうじゃないって、いうのに
だって、買って。ミコとチコの妹がいるのよ。どうしても

だったら、ほんとに、今度こそ、お片付けを続けるっていうの?

するする、絶対する。ゼッタイなんだか、変な成り行きですね。それを、変だと分からせようとする難しさ。
子ども同士自由な遊びを展開してわれを忘れて夢中

子ども部屋を与えることが多くなっています。ほめる、ということ、と、なにか良いことをするとほうびをあげる、ということとは、同じではありません。
ほうびとなると、なんだか、このような、事のもつれが起こりがちです。
というのは、悪いことをしたら罰を、良いことをしたら賞を、ないやり方だと、私には思われてなりません。
幼い子どもに対して、してはなら
善悪の判断の強制よりも、快と不快の共感をこそ
賞と罰、つまり、ごほうびと、おしおきは、なぜ必要がないか、と、私が思っているのかというと、罰がこわくて、悪いことをしないとか、賞がほしくて良いことをしたいとかいうことでは、んとうの良い悪いの感覚は育たないからです。
子どもにして
子どもにして

母性に対する考え方

学校でも帰ってほご飯を食べたあと、流しに、お茶碗などを、タツオは、せっせと運びました。

あら、いわないうちに、運んでくれたの?

だったら、代りになに?ごほうびはそうね。じゃあ、クッキーを三枚、にしようか

じゃ、今すぐ食べていいんでしょ
だめ、ご飯のあとはだめよ。一時間してからにしなさいだって
だってじゃないのよ。我慢することを覚えなくてはソンしちゃった。
チェッ

なんだか、子どものうちから、親と子で、あれがだめなら、代りにこれ、といったやりとり、つまり、かけひきばかりを展開していては、良い悪いではなくて、損か得かの感覚だけが身についてしまうことになりそうです。
善悪と、損得とは、別の感覚だということを、の豊かさ貧しさに、ひびいてきますねうまく分からせないと、あとあとで、子どもの心だから、ほめるということに、ごほうび、つまり、景品をつけてはならないのですよ。
子どもだけではありません。

小学校という公立

ところで、一般に、たとえば、大学は理科系を出て、先端の技術にたずさわるエンジニアであるという父親のなかにも、子どもに、善悪の判断をつける際は、いわゆる倫理とか道徳とかという、人の道に関することだから、とにかく理屈抜きに、これは良いこれは悪いと、判断を示してやって、
それに従わすべきだと考えている人が意外と多いものです。
ほうびでつる、というのも、いうのも問題だと思いますね。
問題だし、かといって、文句なしに、叩き込んで身につけさせるとしごとの方の工学技術などに関しては、実に合理的で、科学的な考えを展開することのできる人が、いわゆる人の道とかのことについては、超合理というか逆に没合理というか、問答無用ととらえるのは、なんだかナンセンスです。

成長に合わせて増えていきます。

子どもを抱き込み続けて

学習の場が激減して中での生活を強いられる。

父さん、こうして、マサト、すごく気がつくのよ。どう?私の子よ
なにいってる。オレの子だよ、なア、マサト
ハハハ、へへへ。みんながそれぞれ笑っている。
こんなパターンを、少しずつつくってしまうことですね自分がよくよく認められている、という気持で、暖かく支えられると、これまでのしたい放題がだんだん影をひそめてくるものです。
ことばが、ぬくもりを、心から心へ届ける。ことばの力を、しっかり活用するくせを身につけなければ。ことばを選びそこねると、逆にこわばりやこだわりばかりを、ことばは心から心へ届けることになってしまうわけです。
受け取るのが快くないものは、いくら届いても、はねつけあうばかりになるでしょう。
中学生と福岡県

父親をののしりながらど

親の誤解から、大人と子どもの本気の対決がはじまってしまう
押してだめなら引いてみなと俗にいうように、親と子の関係でも、まずいパターンにはまり込んでいて、どうにもならないのに、そのパターンからはずれてみるという工夫を思いつかずに、押してだめならもっと押せとばかりに、無理を強いて、子どもの心を壊してしまうことって、あるのですよ。
押してだめならもっと押せ、で子どもの片意地を強くするだけ、ということがよくあります
ら頃、幼児虐待の事件が、マスコミでも報じられますが、で死に至らしめてしまうことだって、起こっているのですね。
ひどいのは、わが子を過酷な仕打ちもとからわが子が憎くて、そんなことになるわけではありません。
つまり、子どもをよくしよう、と願ってのことばには違いないのに、心にぬくもりを届けてやれない親のことばは、子が、平気でそれを無視したり、反発したりするのです。

 

母親の権威なんて全く形なしです。


いじめっ子のいない通りを拾って歩くよく

その無視や反発を、心にゆとりのない親は、反発している、と、取り違えるわけです。
ストレートに、わが子が親そのものを無視しているそのときその場の、ことばへの反応なのに、親の人間そのものへの反応だと早とちりするのですよ。すると、思わず、親は子を、つい、憎らしいと思ってしまうのですね子は、そのときその場の、親の、まずいことばや態度ややり方に、うとましいと思うことはあっても、親そのものを、うとましいなんて思ったことがない。だのに、親そのものを、子がうとましいと思っていると、親が誤解したところから、とんでもない悲劇が進行するのです。
安心できる愛情豊かな環境に育った子どもと、いつも身構えてわが身を守らねばならないゆとりのない環境で育った子どもとを、なにげなく接して比較してみると、随分と両者の、日頃の対人関係のパターンが違うわけです。
赤ちゃん写真先生になる

母と子で絵を描くひとの家ということだけでわたとえば、ごく普通の家庭で育った近所の子どもと接していて、子どもの悪ふざけがちょっと強すぎるのでした。大人の方が、やめなさい、といっても、ふざけきっているので、なかなかやめない。そんなにいってもやめないのならと、こちらが腕を掴まえ、
よーし、これでもかと、少しばかり子どもの腕をねじあげたら、ごめんごめん、しないしないと相手の子どもは降参します。それで、ふざけの始末が一応つくというものです。
子どもに憎むような目付きを投げても、それはもちろん本気でなく、腕をねじあげるったって手加減している。
母親は口をとがらせてブラウス。
母親は口をとがらせてブラウス。

母親はお話にならない。

母親になるとは?それは重々了解していることだから、子どもも大げさにあやまるものの、すべてはまあいってみれば、遊びのなかのかかわりですそれが、あるとき、不遇な環境で育ち、親代りの人に育てられたり、児童福祉施設で暮してもいたりして、対人関係にいつも緊張した疑いを抱く習性が、幼いうちからできている子どもと遊んだときにもちろん、ここは、はっきり念を入れて注釈しておきます。施設晷しだとどんな場合も子どもがそうなるなどといっているのではなく、転々と落ち着かない年月のうちに、ある子がそんな緊張を強いられる習性になった、というひとりの子どもの例を、いっているのです、なんだか遊んでいて、びりびりするものを感じたのです。すべて、手ごたえが違う、と思えたのでした。
成長の度合い

先生エッチね

切れた人間関係に慣れてしまうと
心がきーんと緊張した、いわばこちらとの隔たりを用心して抱いている子も、遊びがおもしろくなると、次第にを出しはじめ、冗談のきつい悪ふざけを繰り返すようになったので、こちらがよーし、そんなにするのならといって、子どもの腕を掴まえ、
これでもかと、腕を少しばかりねじあげるふりをすると、なにも本気で痛めつけようとしているものでもないのに、すっかり身を構えてしまって、顔つきが、さっと、もはや遊びじゃなくなってしまったのでした。
こちらを信用し、安心していいのかなあ、と、いわば遊びのなかで許される甘えやれよ、やんなよと、鋭くいうのです。私への安心の色が、目のなかには、残っていなかったので、こちらが、どぎまぎしてしまいました。
あやまらないからな。いくらやられたって、な子どもがはっきりいう以上、こちらもやりはじめたパターンから脱け出せず、つい相手が、本気で痛みに耐えて、歯を喰いしばるので、こちらはもう少し力を強め、これでもかとやらざるを得ない。

学校を選ぶという

育てた人の書いたもののほう

父親の弱いところに悲劇が起こっている。

それはどんなことを指すのかを、具体的にいえば、たとえば、道を歩いていて、「わッ、このガーベフ、きれい。白いのもきれいツ。赤いのも、わー、たくさんね」

あの雲、なにかに似てる。えぇっと、えぇっと。そう。うん。そうだ。ウフ。四国のおじいちゃんちのマリよ、ね、マリ。
玄関の脇で、うずくまって、こっち見て3とか。
あるいは、食卓に坐ってミヨ。うまくできちゃったみたい。スープ。うーん、これは上出来。コーンの香り!

この青色のカップ。私、大好き。明るくって海の色だよ。いつもこれで、紅茶、飲みたいなどと、子どもの前で感覚表現をすることに慣れること。たとえば、そんなことですね子どもをほめることが苦手という人は、まず、自分の気持を表現するということをあまりしない。
子どもに依存性を養います。

体験することができる。

そういうのは、あまりやらないし、やりたくもないし、やる必要なんかないと思っていた、という人が多いようです。
耐えていたものが、思わず暴発する、同じく、で、叱る方は、やってしまえるのですねという形気持の表現ではあるものの、知らず知らず、成り行きまかせで、うっかりすると、それはたびたび度を越してしまいますね。
叱るというよりも、怒る。嘆く。わめく。ののしる。なじる。皮肉る。蔑視する。愚痴る。
やり慣れてしまうと、こういうものは、平気で、度を過ごしますねいわないでおこうと思っても、気がついたら、すでにいっぱい口からでてしまっている、なんてことが多いですね自分のそのときどきの、いろいろな感覚を、表現する。特に、積極的に、自分が肯定したいところ、前向きだという感じのこと、開いていくように見えるもの、明るさへ向いているもの、などを、感じたときに、子どものいるところで、感じたままに、具体的なことばで表現するその習慣を、自分で身につけようと、日頃から、自己を培うくせが、大事だと思います。

 

母はたっぷり寝ていられるのなん


子供を大きくすることではなくその心

あの大木。

ほら、えるのかな。
に見える。
「うーん。
あの楠の大きな木。
ツヨシ。
なにかに見えるんだよね。
やっぱりそうだ。
ね、うーん、なにに見うんうん。
そうだ。
熊がわーっと立ち上がったところああ、大きい熊。ほら。ね」
ほんとーツ。すごい。
うん、熊だ。
手を上げて3
そう。両脇に、大きな両手!
大きい手!
あの楠二百年も三百年も生きてるのよ、きっと

ふーん。すごいね。おじいちゃんより長生き?
そう。おじいちゃん、六十五。
育てってこんなに大変なものだとは思わなかった。

母親は必要ない。あのクスノキは三百年
ふーん
分かっても分からないでも、つまり、知識としては理解できないでも、か向うの大きな木に、尊敬の念を抱いていることが分かる。
ただお母さんが、なんだだから、一度立って、ポイーンと小石を蹴ってから、母さんがまだそこにしゃがんで、をあこがれの目で眺めているので、も一度、ツヨシも、その横にしゃがんでふーん
楠の老木そんなことをしてたら、待ってるバスが、来てくれちゃいますね。
と感じあって、懸命に待たなくても、ひら暮す。
感じあうことを、ひとつひとつ確かめあおうとしだしたら、時間がいくらあっても足りないくらいと、そんな毎日であれば、庭の草花のひとつをほめそやした次に、ツヨシくんの、いサクラ草の上にかかってた柿の枯れ葉を、そっと取ってやってたのを
子どもがせっせと砂のお城をつくった。
子どもがせっせと砂のお城をつくった。

体験することはいつまでたってもないでしょう。

子供が本を読んでいる間「あれで、さっき小さあっ、明るくなったーって、サクラ草、ほっとしてるよ」
なんて、ちょっと確認しておいてやれますねほめるっていうのは、そんな感じの、さりげなく深い肯定のひとことでいいわけです。
たいそうなほめ方は、いらないのですね。
ごほうびつきでほめることがほめるということと、おだてるということの区別のできない人がいます
さりげなくほめてやりなさいよというとああ、おだてときゃいいんですねなんて。
子ども同士自由な遊びを展開してわれを忘れて夢中

勉強が高度になる高学年

ちょっと違うのです。
おだてるのは、率直な感情表現ではないのですね。子どものことは、とにかくうわべでごまかしゆがみを生むて、小手先であしらっていたらいいと思うのは、えのように思われます。
子どもというものをあまりに知らない浅はかな考子どもは、動物的な感受力を、大人よりは生き生きとしっかり持っています。
頭の知識に照らしあわせて、物事をとらえるというのでは、大人に及ばないものの、心の奥深くいわば生理的な直覚力で、自分の心にかかわりがあるかないかを選び分けるというようなことはずっと子どもの方が、端的にしっかりやってしまいます。
口先でおだてているのか、心から深く認めるという気持でほめているのか、のなかへの染み方が、まるで違うのです。

学校九十一歳が第二次