育てた人の書いたもののほう

父親の弱いところに悲劇が起こっている。

それはどんなことを指すのかを、具体的にいえば、たとえば、道を歩いていて、「わッ、このガーベフ、きれい。白いのもきれいツ。赤いのも、わー、たくさんね」

あの雲、なにかに似てる。えぇっと、えぇっと。そう。うん。そうだ。ウフ。四国のおじいちゃんちのマリよ、ね、マリ。
玄関の脇で、うずくまって、こっち見て3とか。
あるいは、食卓に坐ってミヨ。うまくできちゃったみたい。スープ。うーん、これは上出来。コーンの香り!

この青色のカップ。私、大好き。明るくって海の色だよ。いつもこれで、紅茶、飲みたいなどと、子どもの前で感覚表現をすることに慣れること。たとえば、そんなことですね子どもをほめることが苦手という人は、まず、自分の気持を表現するということをあまりしない。
子どもに依存性を養います。

体験することができる。

そういうのは、あまりやらないし、やりたくもないし、やる必要なんかないと思っていた、という人が多いようです。
耐えていたものが、思わず暴発する、同じく、で、叱る方は、やってしまえるのですねという形気持の表現ではあるものの、知らず知らず、成り行きまかせで、うっかりすると、それはたびたび度を越してしまいますね。
叱るというよりも、怒る。嘆く。わめく。ののしる。なじる。皮肉る。蔑視する。愚痴る。
やり慣れてしまうと、こういうものは、平気で、度を過ごしますねいわないでおこうと思っても、気がついたら、すでにいっぱい口からでてしまっている、なんてことが多いですね自分のそのときどきの、いろいろな感覚を、表現する。特に、積極的に、自分が肯定したいところ、前向きだという感じのこと、開いていくように見えるもの、明るさへ向いているもの、などを、感じたときに、子どものいるところで、感じたままに、具体的なことばで表現するその習慣を、自分で身につけようと、日頃から、自己を培うくせが、大事だと思います。

 

母はたっぷり寝ていられるのなん


子供を大きくすることではなくその心

あの大木。

ほら、えるのかな。
に見える。
「うーん。
あの楠の大きな木。
ツヨシ。
なにかに見えるんだよね。
やっぱりそうだ。
ね、うーん、なにに見うんうん。
そうだ。
熊がわーっと立ち上がったところああ、大きい熊。ほら。ね」
ほんとーツ。すごい。
うん、熊だ。
手を上げて3
そう。両脇に、大きな両手!
大きい手!
あの楠二百年も三百年も生きてるのよ、きっと

ふーん。すごいね。おじいちゃんより長生き?
そう。おじいちゃん、六十五。
育てってこんなに大変なものだとは思わなかった。

母親は必要ない。あのクスノキは三百年
ふーん
分かっても分からないでも、つまり、知識としては理解できないでも、か向うの大きな木に、尊敬の念を抱いていることが分かる。
ただお母さんが、なんだだから、一度立って、ポイーンと小石を蹴ってから、母さんがまだそこにしゃがんで、をあこがれの目で眺めているので、も一度、ツヨシも、その横にしゃがんでふーん
楠の老木そんなことをしてたら、待ってるバスが、来てくれちゃいますね。
と感じあって、懸命に待たなくても、ひら暮す。
感じあうことを、ひとつひとつ確かめあおうとしだしたら、時間がいくらあっても足りないくらいと、そんな毎日であれば、庭の草花のひとつをほめそやした次に、ツヨシくんの、いサクラ草の上にかかってた柿の枯れ葉を、そっと取ってやってたのを
子どもがせっせと砂のお城をつくった。
子どもがせっせと砂のお城をつくった。

体験することはいつまでたってもないでしょう。

子供が本を読んでいる間「あれで、さっき小さあっ、明るくなったーって、サクラ草、ほっとしてるよ」
なんて、ちょっと確認しておいてやれますねほめるっていうのは、そんな感じの、さりげなく深い肯定のひとことでいいわけです。
たいそうなほめ方は、いらないのですね。
ごほうびつきでほめることがほめるということと、おだてるということの区別のできない人がいます
さりげなくほめてやりなさいよというとああ、おだてときゃいいんですねなんて。
子ども同士自由な遊びを展開してわれを忘れて夢中

勉強が高度になる高学年

ちょっと違うのです。
おだてるのは、率直な感情表現ではないのですね。子どものことは、とにかくうわべでごまかしゆがみを生むて、小手先であしらっていたらいいと思うのは、えのように思われます。
子どもというものをあまりに知らない浅はかな考子どもは、動物的な感受力を、大人よりは生き生きとしっかり持っています。
頭の知識に照らしあわせて、物事をとらえるというのでは、大人に及ばないものの、心の奥深くいわば生理的な直覚力で、自分の心にかかわりがあるかないかを選び分けるというようなことはずっと子どもの方が、端的にしっかりやってしまいます。
口先でおだてているのか、心から深く認めるという気持でほめているのか、のなかへの染み方が、まるで違うのです。

学校九十一歳が第二次

勉強しているのであって

母親の態度

とにかく、いうことが耳に入らないようなのですね、マサトは。
お母さんの前を、マサトがうんこらうんこらと、客用の座ブトンを運んで行きます。

どうしたの。それ、どうするの?
また、なにごと?と気色ばんで、さんなんか、完全無視なのです。
繰り返して尋ねる前を、彼は平気で横切って行きます。
お母座敷で洗濯ものをたたんでいたお母さんが、一髪というところでした。
あわてて後ろからついて行ってよかった。
まさに間裏の縁先から、すぐ下の地面においてある、水の入った子ども用のビニールプールへ、と運んだ客用の麻の座ブトン11枚を、まさに投げ込もうとしているのでした。
うんしょ
いったい、……お母さんは、なにかから連想した遊びのイメージがあるのでしょう。
どういうつもり?
座ブトンの端を掴んで、叫びます。
またまたマサトくんの頭には、そうです、きっとそう。先夜、テレビでやってた、温泉めぐりのハチャメチャ番組。確かにそれで、頭にタオルの鉢巻きをしたハダカのおじさんが、座ブトンみたいな四角い浮きのまん中にでんと坐り、大浴槽の湯の上で、酒を呑んでいた、そんなシーンがあった。
成長するのです。

両親で話し合って

ふと自分もそれがやってみたかったのに違いありません。
まわりが、二重になったふくらみで、重ねたように見えたのですから。
あのテレビに映っていた浮きは、確かに二枚の座ブトンをお母さんは、もう泣きたくなっちゃいます。
お父さんに叱ってもらうからね!
ヘッヘッヘ、ハハハハ、と笑われ、母親の権威なんて、全く形なしです。
父親の前ではとってつけたような、殊勝な縮こまりの態度
ところが、お父さんの前では、マサトは別の子になりますだって、お父さんは、お母さんの請負いしごとで、とにかく怒り屋専業です。

 

先生は女性である。


子どもに対するカウンセラーとして

一杯呑んだあと、大口をあけて楊子をつかいながら、こわいのだから。
マサト、こっちへおいでマサトはその一語が響くだけで、首がびびびびッとすく電流でも通じているのかと思うほど、みます。
どうなんだ、いったい
ゴメンナサイ

ごめんなさいっていつもいつも、この繰り返しじゃないか。今日は、なにをした!?

モウ、シマセ。ゴメ.ナサイ!
お母さんを困らせて、それでいいと思っているのかバシーン
,食卓を父さんが叩きます。
一度、びしばしと、右へ左へ叩き倒されたときは、すごかった。
マサトは、きゅーっと体を縮めて、小さくなって、息をつめています。
横から無念極まりなしという声で母親がなじります。
「いくらこうして父さんにいわれても、ちっとも変らないんだから。
るのかしら。もっともっと叱っておいてよ」
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子供の性格ということが大きいのですこの子、いったいどうなってちらっと上目遣いで父親を眺め、父親の反応があらわれる前に、速さで、ゴメンナサイツとマサトが、絞り出すように叫びます。
飛びしがるように機先を制する
でも、ほんとに、習慣になってしまっているのですね父親の前では、とってつけたような殊勝な縮こまりの態度母親だけの昼間は、思いついたことを思いついたようにし抜いて、親の注意など全く耳を貸さな邪鬼さながらのしたい放題母親は嘆いてなじって、い、おろおろ子の後について。
子どもに振られっ放し。
実質とにかくこのパターンにはまって、日が過ぎてきてしまっているのだから、子どもだってそれでよしと、よくよく頭で考えて、そうしているわけなんかではなくて、とにもかくにも、一日過ぎてみれば、きのうもきょうも、そういう毎日だった、ということなのですね
また、マサトったら、きょうもなのよ、
ようし、マサト、こっちへおいでゴメンナサイツ
お父さん
という、このパターンを、親の方で、ひとつ、どうでも取り止める覚悟をしなければ。
子どもには非常にそれを感ずる心があるのです。
子どもには非常にそれを感ずる心があるのです。

指導することすなわち

子どもであればとくこれでは、心にしみ込むことばというものを、一度も味わわないままで、自分の不用意な、したい放題の習性から抜け出せないまま、大きくなってしまいます。
ことばは、
ねえ、心を運ぶものでなくてはなりません。
父さん、この頃、マサト、違うのよ。
ほんとのマサト自身が、見えてきてるのそういういい方を、パターンにしてしまったらどうかなァ。
そして、昼間の、したい放題のだめなことは、できるだけ、父親に、母親自身が、効き目があろうとなかろうと、自分で叱ってやる。
できる限り訴えることはよす子どもの、け出す目配り。
育てってこんなに大変なものだとは思わなかった。

個性を十分

ちょっとしたよいところ、前向きのところ、クールなひらめき、などを、うまく見つこれが、子育ての重要なポイントでしてねえ。
で、お父さんに、いってやるのです。
「ちょっとうっかりして、アユミのミルク、熱かったのね。
アユミをあやしてくれたの。
で一口吸って泣き出したわけ。
マサト、すると、マサト、ベロベロべエーッて、やさしい」
「ほう、アニキだなア、早く一緒につきあえよ。
やっぱり、マサト。おまえ、早く大きくなれや。大きくなって、男の子の育つの、やっぱりオヤジとしては、楽しみだなア」
オレの酒「ア、それ、おショーユでしょ。母さん。おショーユ。父さんに、ぼく持って行ってあげる」

父親に対して次第に反抗するようになりました。

子ども同士自由な遊びを展開してわれを忘れて夢中

子どもが何か問題を起こせば

子供を脅す必要などありません。
というしそれで、夕方に片付けるときは、どれからどう手をつけたらいいか、子どもでなくても茫然としてしまうほど、家中がショウちゃんの遊びの世界になってしまっているのです。
さて、だから、夕方は、お母さんにとってもショウちゃんにとっても、いやな時間です。

こんなになにもかも出しっぱなしてしまったら、片付けられないでしょう。だから、ひとつずつ出して遊びなさいって。
ひとつ片付けて、ひとつ出して。
きょうこそ手伝わないよ、絶対に。
お父さんや、おじいちゃんが帰ってこられるまでに、きちんと、片付けるのよ。
よ。ねえ、ショウちゃん。どうしてるの。まだ遊んでるの?どうしてるのよさ全部。
ぜーんぶ結局そういいながらも、実際、男の大人どもが帰ってきたら、子どもが叱られるよりも、母親が散々愚痴をこぼされ、しつけが悪いと叱られるのだから、お母さんが、百も文句をいいながら、ほとんど自分で片付けることになってしまいます。

子供の側からすれば
遊ぶときには夢中だったショウくんも、今は遊びの世界の外に出ていて、なんだかまるでやる気がない。ポーンと大玉を投げて、おもちゃ箱へ投げ入れるつもりがはずれて、横の積木のお城にあたって、お城が崩れる。アハハ、と笑って、たちまち投げてものに当てっこのゲームの開始。

片付けるのでしょうがア。
お尻を叩かれて、いつまでなにをしているのよさついに、余計に不満で、そのあたりに寝つころがってしまいます。
「あしたからね。こっちにこれ出して、放りっぱなしにして、あっちであれ出して遊んでたら、こっちのぜーんぶ、母さんが片付けて、戸棚にしまって、出せないようにカギかけてしまうから。
ね、いいわねツー」
そうはいっても、五歳、六歳は、遊びの世界を、いっぱいに展げたい年頃なのですからねえ。
あの遊びへと発展させていく。絵の画きっぱなしの道具も置いておきたこの遊びから連想して、
いし、怪獣がのっしのっしと踏みつぶしていく大都会を、大急ぎで積木や菓子箱で作らなければならない。

母親がいくらいっても聞こうとしないアッオくん

さっき見たテレビのコマーシャルがヒントで、モータープールビルを、この机を活用して、空き箱利用で積みあげて、ミニカー1台ずつきちんと並べて。ところが、ここへ怪獣が来たら、どうなるか。グワワーン。ひっくり返してそのあたり滅茶苦茶。
この絵本、もう見ないのでしょ。片付けるよ

あーあ、あ。だめーツ。触るな!
なによ、偉そうに!片付けるよ
だめーツ!
遊びも片付けもひと流れの愉しいしごとと思わせる
むしろ、展げっぱなすのは、やむを得ないことにして、片付けるということを、うまく誘導した方がいいのですね。
ポイントは。
片付けるとなると、ぴたっとやる気がない。
そこをどうするかの工夫ですね遊びと片付けとを、だと思うのです。

子供にはありのままを教えればよい中学生を通して圧倒的異質の別のものに、親の気分自体が、二分してしまっているのが、問題なの「さあ、これで、あなたの楽しい楽しい、したい放題の遊びは終った。これから、あなたのいやないやな、どうでもしなければならないお片付けをはじめなくてはならないの」といういい方に、遊びはバラ色、片付けは灰色、という区分けで、しっかり色付けされているのですね遊びは発散。片付けは重圧もっとひどくいえば、遊びはとっても明るいことで、子どもの気持において、というより、親の態度が、ですよ。
片付けはなにか暗いこと、というような。
親の顔色にあらわれるその違いに、まず暗示を受けて、子は、ことさらに、うつとおしく強制される労役のように思ってしまうのではありませんか。

練習の足しになりますかむしろ

片付けることを、遊びと片付けを、一色の、ひと流れの、つまり、そのすべてを、遊びの一貫と、見てしまっているという態度を、親自身が、しっかり見せれば、子どもも、それに明るい暗示を受けて、もっともっと片付けるということに、こだわりを持たなくなるのではないでしょうか。
さあ、もうそろそろお片付けよッと、口をとがらせて不服面で、向うから声をかけるのではなくて、「わー、これだけ出して展げたら、片付けるのって、おもしろそう。ほら、このボール、こっちでしょ。ここに、こう入れて、と。

子どもの親だったとき

ショウ、その積み木、グララッと倒してごらん。ウワーーッ。倒れたあ。〈エ、その角に、それを入れると、これがこう入るのか。なるほど。
これはこっちと、それは、ハーイ。そっちへ、これ、渡すよ」
ある時間が来たら、展げるゲームでなくて、片付けるゲームへ。
それもまた、実におもしろいものだと、そんな感じを、お母さんが、体であらわしてしまえば。
いつしか、子どもも、それに乗って、いつしか、手伝ってもらいながらでも、どんどん片付いて子どもにとって、我ながらやるね、といったちょっと誇らしい感じにもなって。

      成長するにつれて算数や理科に苦手意識が芽生える。
      母のふんばりはとつの心的原点になっています。
      指導をしていればこういう事件も防げたのではない


中学生を通して圧倒的 成長するのです。 先生になるのだという自覚もない。